卒サラ・起業家インタビュー・シリーズ第4回 「沖縄を出奔して、東京へ世界へ雄飛!」(前編) 2013年8月28日
【眞栄田さんのプロフィール】
インタビューアー = 法政大学名誉教授 村串仁三郎
≪イントロダクション≫ Q このたびは、法政大学経済学部同窓会ホームページのために、卒サラインタビューの対談に応じていただき有難うございました。一つよろしくお願いいたします。
卒サラインタビューは、今回で4回目となりました。地味な企画ですが、結構好評で、多くの方々に観ていただいています。法政大学経済学部の先輩、同輩、後輩が卒業後どうのように頑張っているか、とくに起業してどうやって活躍されているか、法政大学経済学部卒業生のみなさんが大いに関心をもっているからではないでしょうか。 今回は、眞栄田義己さんにお願いしたわけですが、簡単に自己紹介をお願いします。 80年館7階ロビーで談笑する眞栄田さんと村串名誉教授。
≪生い立ち≫ A 1958年、沖縄本島の日本でも屈指のリゾート地(2000年サミットが開催されました)恩納村で生を授かり、高校まで那覇市で生活しておりました。法政大学経済学部に進学とともに上京し マルクス経済学を学ばさせてもらいました。
卒業後は旅行会社に就職し 約200回もの海外添乗業務で主要な国及び都市を巡りました。そのことも一因でソ連邦で日本との貿易がしたいとの思いがつのり、1991年ソ連邦崩壊後、1992年にロシア共和国首都モスクワで合弁会社を設立し、1993年にベラルーシ共和国首都ミンスクで合弁会社2号店を設立して、日本との貿易業務を展開いたしました。 現在はベラルーシ・ウクライナ・ロシア共和国の商工会議所日本代表となり、3カ国と日本のビジネス上で円滑に相互の貿易業務が行えるよう微力ながら尽力しています。 Q ダイナミックな経歴のご様子で、今後のインタビューが楽しみです。
まず多感な高校生時代を振り返って、一番に思い出されることは? A 高校1年の5月15日に沖縄返還があり、ドルから円、右側通行から左側通行へ、午前0時をもって変わる瞬間に立会った事が、今思うと歴史の生き証人になった思いがあります。ジャンボの2倍のB52爆撃機が、北ベトナムへ爆撃のため、アジア最大の米空軍基地だった沖縄のカデナ飛行場から出撃していた時代で、離発着する巨大なシルエットは、今そこにあった戦争を垣間見ていた世代だったですね。
Q 沖縄人・ウチナーンチュとして、本土人・ヤマトンチューとだいぶ異なった体験をされたわけですね。高校生時代にはどんなことに熱中されたのですか、例えばスポーツなどでは?
A 自分で言うのも恥ずかしいですが、運動神経が良いのか何をしても人並み以上で、特に球技は旨く、野球はキャッチャー、バレーはセッター、サッカーは昔で言うセンターフォワードをしていました。
Q かなり天才的だったということですね?
A 上には上があり、クラスで2~3番手ぐらいですかね。
高校時代の眞栄田さん。 Q それから大学受験の年齢を迎えるわけですが、どこの大学を受験されたのですか?
A 私の卒業した高校は、那覇市では御三家的な進学高でしたので、猛勉はしませんでしたが、ある程度は受験勉強しました。
同級生は、ほとんど琉球大学へ進学しましたが、私は、幼少より沖縄を出たいとの思いが強く、カナダのバンクーバーへ移住したいと思っていました。飛行機は羽田からでしたので、東京に行った際、肝試しに受けた試験が運良く合格してしまった結果が、今にいたっています。大学はどうせ合格しないと思っていましたが、運良く法政と学習院の2校に合格しました。大きな人生の転換となりました。
Q われわれ法政大学人としては、眞栄田さんが学習院大学に行かなくてよかったと実感しています。
A マルクス経済学を学ばねば、後にソ連邦に行く動機付けもなかったでしょうから、法政大学への入学は運命的な選択だったと思います。
Q マルクス経済学というと忌み嫌う人が多くいますが、そうしたものもご自身の人生にとって前向きにとらえていらっしゃるように感じましたが。
A 今の視点から見ますと、マルクス経済はエンゲルス経済へ移行し、さらに近代経済学は数式の世界になっています。私の時代は近代経済学なる言葉すら無かったのですから選択の余地はありませんでした。マルクスを忌み嫌う人は、現在の物差しで過去を計る決定的な過ちを冒しているように思えます。
Q 私もマルクス経済学から学問の世界に入って、そこで大いに学ぶものがありました。私は、30年くらい前にマルクス経済学と決別しましたが、マルクスの偉さとか凄さを決して否定はしていませんね。今も学ぶべきことが沢山あると思っています。
A マルクスが生涯をかけて構築した学問を学生の4年間で習得など出来ませんでしたが,ロシアで過ごす過程でユダヤ的なイノベーションの発想やユダヤ教の何たるかを多くのユダヤ人に接する事により、理解出来るようになった事は、マルクス経済を知る上で絶対的に必要な要件でした。
≪大学生時代≫ Q さて眞栄田さんが法政大学経済学部に入学したのは何年でしたか?
A 昭和52年4月の入学です。
Q 1977年4月の入学ですね。沖縄から法政大学に入学する人は、そんなに多くはなかったようですが。
A 私の少し前の世代の沖縄のエリートコースは、国費留学生に合格し、アメリカの大学に留学することでしたので、6大学に進学するのは2番手のようなイメージがありました。それでも6大学へ地方から入学するのは至難の業で、学習塾もなく中央より情報もなく、過去問もなければ、傾向と対策も出来ず、当然付属校もありませんので推薦もありません。
上京後分かりましたが、地方出身者が中央へ受験する事がいかに不利かしみじみ痛感しました。東京の人は頭が良く、地方は劣っているとの劣等感で上京しましたが、資質に差はなく、情報量の差のみと実態が分かり、いっぺんに劣等感がなくなったことを覚えています。 Q 私は、東京生まれなので、そうした地方出身者の気持ちを抱いたことはありませんが、2歳にして父親が死んで小学校に上がるまで、母親の田舎の実家に、しかも後妻に入った祖母と私の母親と腹違いの弟の叔父と意地悪なそのお嫁さんのいる母親の田舎の実家に育ち、コンプレックスのかたまりだったので、地方出身者の気持ちはわかるような気がします。
A 現在は、沖縄全体の学習意欲の底上げもあり、6大学に進学する事は特別な事ではないようです。進学塾の数も増え、インターネットの普及で情報の格差が少なくなってきたのも要因にあると思います。
また今ひとつ本土の皆様には分かりずらいと思いますが、沖縄は、日本で一番の移民県で、4年に1度県主催で世界に雄飛した人や、果てはそうした人たちの子や孫が沖縄に集い、アイデンティティーを確認しあう「世界のウチナー人大会」なる壮大な催しがあります。日本全体の問題でしょうが、沖縄の現世代は環境に恵まれすぎたため、海外に雄飛する意欲に乏しく、冒険心も関東どまりで、妥協の産物が6大学への進学になっている感があります。 Q 興味深いご指摘、有難うございました。なるほどと感服しています。
ところで大学の進学先を法政大学にきめ、あるいは経済学部を選ばれた理由は何だったのですか? A 世間を知らず、ビジネスの何たるかも知らない高校生でしたので、将来の仕事に結びつく学部や学問を選ぶ洞察力はありませんでした。法学部だと六法全書丸暗記をしなければならないからイヤで、文学部は女性が多いのでイヤで、経営学部は何のために?、社会学部って何を学ぶの?、などの消去法で選んだ結果、経済学部となりました。
法政大学を選択した理由は2つありました。その頃法政大学の教授に沖縄学の外間守善教授がいらっしゃった事。今ひとつは私の叔父が法政大学法学部の出身で県庁に勤務しており、幼少から法政、法政と聞かされていたため、法政がDNAに刻まれたようです。決定的な理由は他大学の情報を知らなかったのが最大の理由だったです・・・。 Q そうでしたか。眞栄田さんには、法政大学へ来るべき運命の赤い糸の導きがあったのではないでしょうか。
ところで、眞栄田さんの法政大学在学中は、大学はどんな状況だったのですか?大学紛争が終わりかけでしたかが。 A 最盛期がいつなのかは私には分かりませんが、私の肌感覚では大学紛争も下火で、終わりかけていた最後の世代ではないかと思います。
自慢にもなりませんが、学生の試験場乱入で4年間試験が行われず、レポート提出のみで卒業しました。大学紛争はあったようですが、激しくぶつかりあうような局面には1度も遭遇していません。トイレなどに法政にノンポリはいないなどの落書きはありましたが、私の周辺に政治思想がある学生は皆無でした。ましてや中核派と名乗る学生に会ったこともありませんでしたので、一部の学生が主張した社会変革の要請は、確実に終わっていたと思います。 法政大学の校門前での写真。 Q そんな中で、眞栄田さんは、どのような学生生活を送られたのでしょうか?
A 高校時代は、積極的に友をつくるでなし、スポーツに打ち込むでなし、勉強に打ち込むでもなし、無為に過ごしてしまったとの後悔の念があり、大学時代は、特に英語の習得に時間をかけ、多い日は10時間勉強するほど情熱を傾け、夏休みにはバンクーバーに2カ月ほど語学修行に行ったほどです。たくさんの書も読み充実した4年間でした。
Q その時期の学生を私は教師として見てきたのですが、そうした混乱期に遊んですごした学生も多かった中で、特に英語の勉強に打ち込んでおられたということは、大いに注目したいところですね。眞栄田さんのそういうところは、並みの学生と違っていたと思います。
ところで、ゼミは参加されなかったのですか? A はい。参加しませんでした。
Q 何故ゼミに参加されなかったのですか?
A その頃は必要性を感じませんでした。後に後悔しますが。
Q われわれ教師だった者としては、どなたか教師と、特別な師弟関係をもち、大学生活を充実してもらいたかったという気持ちですが、別にそんなにゼミを神聖化しているわけでもありません。ゼミに参加しなかった学生でも卒業後立派にやっている人も多かったですから。
英語以外の学業のほうはどうだったのでしょうか?おもにどんな科目というか問題を勉強されたのですか? A 費やした時間からしますと英語、歴史、経済ですが、好きな分野は、勝手に科目をつけますと、ジャーナリスト学、唐詩、宗教学でした。
Q 幅広く勉強されていたようですね。印象にのこっている講義は何かありますか?私の産業労働論は受講しましたか?
A 大変すみません受講しませんでした。
≪最初の就職先・ユニオンインターナショナル時代≫ Q いよいよ大学を卒業されるわけですが、卒業後の生活をどのように描いたのですか。
A 沖縄に戻り、県庁か沖縄県警への就職も考えましたが、4年経ても沖縄に戻る意思はなく、最大のセールスポイントの英語を生かせる職種を考えた結果、旅行会社に就職しようと決めました。
Q 好きだった英語がそこで生きてくるわけですね。そういうセールスポイントを何か持っている学生は、就職に有利ですものね。
実際にはユニオンインータナショナルという企業に就職されたわけですが、それはどういう企業だったのですか? A 現社名はJALトラベルで、JAL出資の旅行会社です。わかり易く説明しますと、航空機はJAL、ホテルはJALホテルシステムズのみを利用した、デラックス主催旅行ジャルパックの販売会社ということになります。
Q そこでどのような仕事をされたのですか。
A 企画・手配・営業、添乗業務、代理店の管理及び育成業務と旅行会社に関するすべての業務をこなしました。
Q 旅行業全般の仕事をされたわけですね。それぞれもう少し内容をお話し下さいませんか。
A おもに私の携わった仕事は、特殊ツアーの主催・手配・添乗業務ということですが、少し詳しくしお話しましょう。
一般的な主催旅行は、不特定な人を募集する旅行形態ですが、テクニカルツアー・特殊ツアーは、旅行そのものが主目的ではなく、組織・団体・会社等がその目的を達成するための主催旅行です。航空機・ホテル・送迎を手配すると、目的に関わらず主催旅行と言います。 Q 私も某労働組合に頼まれて、組合幹部と海外調査をおこないましたが、こうした組合の海外調査の手配もこの主催旅行ですね。
A そうです。
例えば私が携わった大きなプロジェクトに電通が企画し、「デパートそごう」で開催された大バチカン展がありました。準備期間で1年、開催期間で1年、終了後さらに2年合計4年ものプロジェクトでした。 ラファエロやミケランジェロなどのバチカンの秘蔵絵画や歴代の教皇の衣装等を「そごう」で展示する企画は、いまだに語り継がれるほどの成功を修めた企画でした。法王庁より枢機卿・大司教・美術館館長・バチカン市長来日の手配及び国内添乗業務。日本の関係者のバチカン訪問手配。ヨハネパウロⅡ世との謁見手配等、すべての手配担当でした。 教皇・ヨハネパウロⅡ世と眞栄田さん。 Q そのほかの業務で思い出せるのは?
A JRAの依頼による武豊凱旋門出走レース手配で、馬主・獣医の手配のみならず競走馬そのものの輸送手配等をするような手配もしました。
Q これも大変な業務でしたでしょうね。
特殊ツアーの主催・手配・添乗業務というのは、普通の旅行業界の仕事とは違う壮大な文化事業を担っていたのですね。 A 民間企業は、基本的に営利目的で活動しますので、その頃は、残念ながら文化事業を担っている意識はありませんでした。結果的には人類の遺産を扱わせていただいたのですから、今思えば大変な文化事業に携われたと思います。
Q 観光業界は、学生の就職先として大変人気のある業界でしたが、私のゼミ生も観光業界に何人か就職しています。しかし一般的に見て結構難しい業界でもありますね。ご意見を。
A 旅行代理店と名称があるように、旅行会社そのものが飛行機・ホテル・バス・通訳等を所有しているわけではありませんで、斡旋手数料のみが収入源なのです。インターネットの発達とともに顧客は、直接航空機やホテルを予約しますので、販売代理店の必要性がなくなり、存在意義そのものを問われる構造不況業種になっています。
私の卒業時の文科系の人気企業は、JTBだったのですが、今では信じがたいことですね。時代の進みが速く、「今を盛りとしている企業に就職するな」、「今日の成功は明日の失敗と思え」、「成功体験に埋没するな」との教訓をしみじみ感じますね。 Q この業界で働いていて、悩みとか不満はなかったのですか?
A ただで海外旅行が出来ることが最大のメリットでしたが、最大のデメリットは労働量の割には他業種と比べると著しく給料が少なく、先細りする構造不況業界でしたので、将来への漠然とした不安は常にありました。そのことが会社を辞める要因の一つになっていました。
Q 私などからみると、「特殊ツアーの主催・手配・添乗業務」はものすごく、やりがいのある仕事のように見受けられますが、その業界を離れることになる理由をもう少し詳しくお話いただけますか。
A バチカン展が終了した時点で、旅行業界にとどまり生業にする情熱はなくなりました。というよりは貿易業をしたいという情熱が勝ったため、何の躊躇もなく転職しました。
後編に続きます。↓ 「沖縄を出奔して、東京へ世界へ雄飛!」(後編)
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