村串名誉教授の「卒サラ・起業家インタビュー・シリーズ」
元角昌三さん
 「卒サラ・起業家インタビュー・シリーズ」>第6回「元角昌三さん」


卒サラ・起業家インタビュー・シリーズ第6回
30歳にして脱サラ・建設会社を起業 果たして その結果は?

2018年6月30日
【元角さんのプロフィール】

1947年12月 北海道紋別郡興部町生まれ
1966年3月 私立駒込高校卒
1970年3月 法政大学経済学部卒
1970年4月 エス・エフ株式会社入社
1970年12月 同社倒産、失職
1971年 中村工業株式会社入社
1976年 同社退社
1976年 1年半、知人(同一業種)の会社を手伝う
1978年4月1日 「三和建装」設立
2014年9月30日 社長を退任し会長職に就任、現在に至る
 インタビューアー = 法政大学名誉教授 村串仁三郎(同窓会副会長)


◆生い立ちから青年期◆
1Q こんにちは。この度は同窓会ホームページの卒サラ・起業者インタビューに応じていただき有難うございます。
おかげさまで今回で第6回目のインタビューになります。けっこういい評判をいただいており、主催者としてうれしい限りです。
 今日は、私にとって大変興味深い方をお迎えしており、これからのインタビューが楽しみです。さてまずは、定番の質問になりますが、出身地からお話し下さい。
A 生まれたのは北海道、紋別郡興部(オコッペ)町、名寄市に隣接したオホーック海に面した町で、今は紋別市になっています。

2Q お父さんのご職業は?
A 父は、スタートは網走で、靴、その他の履物全般の小売業を営んでいたようですが、小樽に移ってから商社を営み、その後、昭和31年に東京の浅草で紳士靴メーカーを経営していました。

3Q ご家族は?
A 両親に姉が2人、兄が2人、私は末っ子で、5人兄弟でした。

元角ファミリー
中央の昌三幼年(5歳頃)、その後厳父、その右長姉、隣り母親、その前次姉

4Q お父さんは、昭和25(1950)年に小樽に移ったようですが、小樽への転居の理由は何だったのですか?
A 当時は北海道の商業の中心地は小樽だったからでしょう。

5Q 小学校3年生の時に東京に移転されたそうですが。どんな事情があったのですか?
A 父の経営する履物商社は、道内一だったのでしたが、仕入れ先でもあったゴム長靴メーカーの倒産により連鎖倒産してしまったのです。父はそのメーカーの株主でもあり、代理店でもあったったからです。
父の会社の債権者会議は、債権を棚上げして、東京で父の再起を促す壮行会に変わったと、父は語っていました。

浅草石浜小学校3年生、前列の帽子の昌三少年

6Q 泣かせる話ですね。
A 父は「謹厳実直」、誠実な生き様で人望があつたのだと思われる。

7Q 小樽での少年時代の思い出は?
A 小樽幼稚圏及び小学校で知り合った4人の友達との悲しい別れを思い出します。夏の海、冬のスキー、四季それぞれの情景が今も脳裏に残っています。

8Q 小学3年生の時に東京に移られたと聞いていますが?
A 3年生の春休みに青函連絡船に乗り、東北本線で上野に着き、浅草の石浜小学校に転校し、その後、蔵前中学に進みました。

9Q 高校はどこでしたか?
A  私立駒込高校です。

台東区蔵前中学2年生の昌三少年

駒込高校2年生、体育祭の時

10Q どんな高校生生活を送られたのですか。
A 友達は沢山出来ました。アイビー、みゆき族と当時の流行は一通りすべて経験しました。卒業時に女子高の子と相談し、当時テレビで10週勝ち抜きエレキ合戦を優勝した後輩たちを説得し、錦糸町の喫茶店を借り切り、エレキパティをやり、パーティー券をすべて売り切り、儲けました。パーティの後半、地元の不良に追い掛け回されましたが、逃げ切りました。

11Q すでに成人してからの元角さんの片鱗が窺えるような話ですね。
A シティボーイというんですかね。

12Q 大学は、もちろん法政大学経済学部ですが。
A 経済学部1部の試験は落ちました。2部の経済学部に合格しました。3年の時に1部に転部も考えたのですが、友人も沢山出来たし、親に負担も掛けたくないのと、過激派の学生運動ばかりの当時、大学に嫌気をさしていて、1部とか2部とかこだわる事も不要と判断し、昼は、アルバイトを楽しんでいました。
  その頃、母の病状が悪化し、父の事業が悪化していた事も知っていたの、自分で稼いでいました。母は卒業年の1月に59歳で亡くなりました。末っ子でしたので、しばらく悲嘆の底から立ち直れませんでした。

13Q 心優しい息子さんだったわけですね。
A そうですかね。

14Q 大学時代の生活についてお聞きします。大学に入った時の感想は?
A 大学に入った以上は4年で無事に卒業しようとの思いが強かったです。友人がすぐに何人か出来、アルバイトもあったけど友人に会いに行くのが楽しくて、結構サボらず講義には出ました。兄弟の中で私が一番身軽でしたので、よく母の看病もしました。

昔を振り返って熱心に語る元角さん

15Q ゼミへの参加は?
A ゼミには参加していません。

16Q 病気のお母さんの看護をしながら、アルバイトもする、結構大変な学生時代だったようですね。学業についてはどんな学生でした?
A 要領が良かったのか、試験は何とかパスする程度に勉強したつもりです。トラックで現場回りをしたり、大学の近くに中野組はじめ取引先ゼネコンが沢山あり、営業しながら授業を受けました。当時、靖国神社と大学の間の道は一方通行で駐車可能でもありました。

17Q 私も法政の社会学部2部生だったのですが、体力も弱かったこともありまして生活力というかバイタリティがなくて、いつもくよくよして金に困っていました。元角さんの話を聞いていると、ものすごくバイタリティを感じますね。苦学生という暗い感じがありませんね。
A そうですか。

18Q 最後に大学生として生活で、一番印象に残っていることはどんなことでした。
A 地方から来ている友人の下宿先に度々出向き、時に居候などした思い出があります。野沢温泉スキー場で民宿を経営している友人の実家に泊まり、スキー三昧をしたことも思い出します。友人5人と九州一周の周遊券を買い、テントを持っての10日間程の卒業旅行は楽しかったですね。
 一方、車の免許を18歳ですぐに取得して、義兄の営む「塗装工事会社」でアルバイトをしいました。高度成長期のまっさかりの中、日本住宅公団が首都圏で団地を建設中だった現場に飛び込み営業をしては、塗装工事の受注活動をしてました。これも楽しかったです。それ以来、私は、飛び込み営業の達人となりました。

19Q アルバイトに熱中し、友達と親交を深め、大いに遊び歩き、勉強もほどほどにこなして、元角さんは、とっても充実した豊かな学生時代を送っていたようで、羨ましく感じますね。
A そうでしょうか。

◆社会人への旅立ち◆
20Q 1970年に大学を卒業して就職されるわけですが、どんな将来を思い描いたのでしょうか?
A 営業が好きでしたので、その特技を生かせる仕事に就きたいと思った。扱う製品は何でもいい。プロの営業マンを目指しました。

21Q 最初から営業マンを目指すというのは、珍しいケースだと思いますが、結局、どのような企業に就職されたのですか。
A 大学卒業時にネクタイをしめたサラリーマン生活がしたいと思い、旅行好きという事と地方にも興味があつたので、全国展開の営業中心の会社で給料の良い「新製品普及会」に入社しました。一般的には大学初任給が4万5千円だったが、ここでは7万円の高級でした。今でいう超ブラックな会社でした。

22Q どのようなサラリーマン生活をおくられたのですか?
A 会社から部屋を与えられて、意気揚々と仕事に励みました。五反田のT0Cビルで1週間の研修を受けまして、その後、富山県高岡、小矢部、氷見、新湊に約2ヶ月、年中無体、朝8時から夜10時まで徹底的に働きました。その後、国道7号線で北上し、青森県の野辺地、七戸、十和田、弘前、黒石、五所川原、そして最後に青森市内で営業活動をしました。

28歳のサラリーマン時代、長女の七五三、明治神宮にて

23Q しかしその会社は、1970年末に倒産してしまったそうですが。
A 12月中旬に青森支店で活躍している時に、本社倒産をテレビのニュースで見ました。 仕事が楽しかったので、本当に残念でしたが、短期間でしたが、商売の何たるかを勉強させてもらいました。

24Q 若くして失職した際の心情は?
A  当時は純粋で夢中でしたから、何の疑念も感じていませんでしたし、あまり気落ちはしませんでしたね。私は常に前向きで陽転思考を信条としていましたから。

25Q 会社の倒産の原因は何だったのですか。
A 今になって思うのですが、経営理念が浸透しない中での拡大と放漫経営だったということですかね。

26Q 会社が倒産してその後は?
A 12月に倒産して、正月は東京に戻り、1月中は残務があったので青森にいました。
   東京では、営業員募集の会社はすぐに見つかり、そこでも1年程は営業マンとして頑張りました。しかし一回りも二回りも歳の違う先輩を見ていて、自分の10年後、20年後の姿を考えた時、生涯売り子で終わるのはどうかなと思い、悩みました。一期一会、仕事で出会い作り上げた人間関係が、将来の仕事に大きく影響すると考え、未来を見据えて、義兄の会社を自分の力で大きくしたいと思い、義兄の会社に入りました。そこで学生時代のアルバイトで働く基礎ができていましたから、スムーズに再スタートが出来ました。

27Q どんな働きぶりでしたか?
A 大きな会社ではなかったので、何でもやりました。営業、現場手配、材料の配置、入札、銀行との連絡、集金などこなしました。この経験が独立したときに大いに役立ちました。高校、大学の学生時代にパーティを企画したりして商売の面白さを知っていたので、いつかは事業家になりたいと思っていました。

28Q 義兄の会社で働くというのは、いい面もあれば悪い面もあつたのでは?
A 当初は張り切って営業パワーをフル回転し、実績も上げられました。義兄はかなりやり手ではあったが、家族をもってみると将来の設計もしなければならず、いろいろ私が改善提案をしましたが、義兄の社長からはあまり評価されませんでした。周りの社員とのバランスを考えていたみたいです。身内だから人の倍頑張ったつもりですが、後半は冷水を掛けられる事が度々ありました。こうした事情があって、独立することを決意しました。

◆30歳に起業する◆
29Q 30歳の時ですか起業を思い立ったのは。
A そうです。今からちょうど40年前の4月1日、三和建装を発足させました。前年昭和52年12月5日が私の30歳の誕生日です。その日、会社を設立することを決意しました。3ヶ月ほど準備し翌年4月1日に会社登記をし、「三和建装」を発足させました。

30Q 起業の本当の動機はどんなことだったのですか。
A 鶏口となるも牛後となるなかれ!

31Q 凡人には意味がわかりかねますが。
A 大きな牛の尻尾になるよりは、小さくても鳥の頭のように生きろ、というような意味でしょう。
私は、元々組織人としては、大成できる性格ではない、思い通りに生きるには、小さくてもいい、独立するしかないかなとの思いは強くありました。しかし、すでに家族もいたし、「安全な道」とも思い、つまりずっと葛藤していました。義兄とは、段々とうまくいかなくなっていました。
その頃に、私をヘッド・ハントする人がいて、ゼロから出発を試すいいチャンスと思い、ついていきました。しかしその人は良い人ではありませんでした。半年程で腹黒さが分かり、見切りをつけました。「良い人でなくて良かつた」。義兄とも反りが合わず、その人も「良い人でなかった」事が独立を決断させる事になったのです。

32Q なるほど。そして?
A まさに、ピンチをチャンスに変える環境が整った。「逆境こそが我の味方」になってくれた。「置かれた状況=苦難」は自分の為になるなら独立しかない。「背水の陣」だとの心境でしたが、ある種「勝算」も漠然とですがありました。
“大きな集団の中でしっぽにいるよりは、小さな集団であっても長となるほうがよい。父が云っていた言葉です。父も若くして独立し、会社を設立しました。祖父に至つては、一族郎党引き連れて、石川県からオホーック海岸の寒村「興部」に移殖し、その町の開拓者になりました。その独立心と開拓者精神のDNAが私にも刻み込まれておりました。

33Q そういうことでしたか。なるほど。元々大企業にいて起業を目指すというより、小さな企業で働いていて、早々と起業したという訳ですね。
A “若い時の苦労は買ってでもせよ”という先人の言葉は本当だと思います。起業した時、私が30歳、妻が27歳、長女4歳半、そして次女は生後5ヶ月でした。
当時、東久留米市の公社アパートに住んでおりました。事務所は、2DK40㎡の台所テーブルが事務所。電話は2軒で1台の共用です。資本金200万円は、営業用のライトバンの購入や他の機械の購入資金にあてるなどしておりましたら、あっという間に底を突きました。

起業した頃、東久留米の公営アパートの前にて一家

34Q 相当きつい旅立ちでしたね。
A そこで、私は、日銭を稼ぐため現場で塗装工として働きました。ある日のこと、現場作業中に3メートル位の高さから墜落し、腰椎圧迫で約3ヶ月強にわたる入院をしてしまいました。やっと退院できたと思ったら今度は右目に塗料が入り、汚れた軍手でこすったものですから、悪性の結膜炎でまたも2ヶ月ほどの通院生活というさんざんのスタートでした。絶望の淵に立たされました。

35Q 私だったら、めげてますね。
A その後もいろんなトラブルに見舞われました。

36Q たくさん苦労話があったんじゃないですか?
A 材料の仕入れ先が義兄に遠慮して応援してくれないことがありました。受注した仕事に下請が付いてこない。やっと手を付けたかと思つたら、因縁をつけてケツを割る。その穴を埋めるのに、講負額以上の金額提示を求められる。結果赤字になるというようなこともありました。突貫工事を請け負った際に、やくざ系の下請に入られ、落とし前をつけられる命懸けの場面が三度程もありましたよ。

37Q 経営がピンチだったこともあったでしょうか?
A 資金繰りでは妻の姉夫婦に何度か助けてもらいました。得意先の仕入れ条件が悪く、請求後90日払い又は120日払いの手形が当たり前の境遇の中で、労務費は、月末締めの翌15日現金払い、常に立替払いが日常取引きの中、銀行からの信用不足で融資が受けられない事が度々ありました。

初めて買った住宅の前で元角夫人

38Q 中小企業ならではの厳しい試練を生き延びてこられたわけですね。会社が軌道に乗ったのはいつ頃からでしたか?
A 会社が発足してから10年目を過ぎた頃、1990年代に入ってからだと思います。 当時の弊社の主力業務は、ゼネコンさんからの塗装工事の講負でした。今思えば本当にいいお客様に恵まれ、与えられた仕事に対してはほぼ毎日のように現場に出向き、その責任を果たすことで、協力会社のみなさんや、職人さん達がたくさん応援してくれるようになりました。

39Q 私のように部外者の素人目からみても、元角流経営スタイルが協力企業や職人さんの信頼を得ていくプロセスが目に見えるようです。 創業20年、いろいろ苦労されながらやってこられて、元角さんの経営者としての心構えとか経営哲学みたいなものを身に着けたと思うのですが、如何ですか。
A 絶対倒産しない会社にしよう!父や義兄が資金繰りで苦労していたのを見ていました ので、「無借金経営」を目標に規模の拡大ではなく、「利益の向上」を目指し、「経費削減」と「分相応の暮らし」を心がけました。

40Q それはごく当たり前の経営哲学でしょうが、これを実践するのは至難の業だったでしょうね。
A 「凡事徹底」を心がけました。当たり前の事=約束事や決め事をしっかり実践する。やってはいけない事は徹底してやらない。守るべき事をしっかりと守っていくことで、自然と信用が増していく。これが私の経営哲学の一つです。
 私が言っていた「社是」に「人のくらしを美しく」があります。これは、家屋を修繕することによって、そこに住む人々が、美しく幸福に暮らせるようになってもらいたいという想いを込めた言葉です。
 そして「良い仕事は、次への仕事の最大の営業である」。これは、文字通りの意味ですが、これも私の経営理念でした。「三和は我なり」、「常に真摯であれ」、「サービスが先、益が後」なんていう経営理念もありますが、これは、後で話します後継者中社長時代のもので、興味ある方は三和建装株式会社のホームページでもご覧ください。

公営アパートの改修工事

◆飛躍の時きたる◆
41Q 起業してから20年、その頃の経営について特に思い出すことは何かありますか。
A 気がつくとあっという問に50歳となり、設立から20年目を迎えましたが、その間、周年祝賀会は行いませんでした。忙しさのあまり忘れておりました。そしてこの頃から社員数もだんだんと増えていき、1990年には正規の社員と従業員が15~6人くらいになり、協力業者を15企業くらい抱え、売り上げも10億円弱になりました。
この頃からマンシヨンの改修工事の受注が増え始めてきました。マンションの改修工事は、将来有望と思い、わが社の社是である“人のくらしを美しく”をモチーフに当社のロゴマークを作成したのも、この頃だったと記憶しています。

42Q 起業30年以降の経営についてお聞きしたい。
A 周年祝賀会は、30年目にして初めて開催いたしました。この年、以後のわが社の成長を予感させるような仕事を受注いたしました。高田馬場駅前の商業施設BIGBOXの改修工事です。一面は駅ホーム側の工事でしたが、残り三面は一日中24時間、たくさんの人と車が激しく行き交う街中での大工事でした。
この工事の受注額も2億を超え、当社にとって過去最大の仕事でした。仮設から仕上げまで約半年間の緊張の日々が続きましたが、無事故、無災害で引き渡すことができました。初めての周年祝賀会は、そのBIGBOⅹ10の最上階、多目的ホールで行いました。

43Q この事業は貴社のエポックを期したわけですね。
A つい先日のことの様に思います。時間の経過の早さに驚いています。また、この30年目は、私が60歳、還暦を迎えた年でもあり、真剣に後継者のことを考えていました。当時、不動産鑑定士として大手町の銀行に勤務しておりました長女の婿の中君に入社を誘い、その決意をしてくれた年でありました。
 また、私たち夫婦にとっても初孫を授かった年でもありました。さらにこの3年前、本社ビルを西東京市の田無に建てたこともあり、優秀な人材の採用が出来るようになり、将来に明るい展望を見出せた時期でもありました。

自宅前でお孫さんを抱く元角さん

44Q 娘婿の中さんを迎えて、中さんの活躍をご覧になって、どう感じられていましたか。
A 中さんは、私の後を引き受けた事で当初は相当な張り切りようで、失敗もいくつかありましたが、最近はしっかり自信も付いてきていると思います。 彼は、能力、人格、積極性そして私にはない冷静さも備えていて、申し分ない人だと思っています。建設業界の悪しき慣習に立ち向かう「正義感」や「闘争心」も、私に似ていて、最近は非常に頼もしくなってきています。社員の力をうまく引き出していると思い、組織力の活用に秀でているところは、さすがだと思っています。今後さらに、プロ経営者として磨きがかかっていくと期待していますが、健康が第一、健康にはくれぐれも留意してもらいたいと願っています。

45Q 申し分のない後継者をえたわけで、ご同慶に堪えません。でも後継者問題は、結構大変な問題で、中さんに社長の椅子を譲られるには、複雑な思いもお持ちでしたのでは。
ラガーマン平尾氏を囲んで後継者中さんと元角さん
A 4年前、私は66歳で代表取締役会長にひき、一年だけ二人代表制でしたが、翌年には代表権も中社長に譲りました。 多少早過ぎる決断だったかもしれませんが、今日にいたって、その決断は正解だと思っています。会社はどんどん良い方向に向かっていると思います。私が続けていたらこうはなっていなかったと思います。
 ただ、会社が大きくなるということはその分リスクも増大するわけで、最近の業界環境を考えるとなかなか大変なことになっているなと思います。中社長にとって、もしかしたら本当の苦労はこれからかも知れない。
 そういう厳しい状況のなか、安定成長を継続していくのは大変なことだと思いますが、中社長を中心に全社一丸となって難関突破、繰り返し訪れるであろう壁を飛び超えられるか?突破できるか?いずれにしてもパワーが不可欠であろうと思っています。

46Q ともあれ、「三和建装」は健全に発展中で、生みの親としてはパッピーではないですか。おうらやましい限りです。
 さて先月、「三和建装株式会社」の創立40周年を祝う祝賀会が、明治記念館で開催されまして、私も招待されて出席させていただきました。400名を超える参会者で盛大に行なわれていましたが、私にとっては、こうした実業界の集会は初めてなので、興味深く観察しておりました。元角さんの会社の40周年らいしい雰囲気が満ちていて、私も感動しました。40周年祝賀会の感想をお聞かせください。
三和建装の社員総会

40周記念祝賀会で挨拶する元角さん
A 30周年から40周年迄の10年間はまさに、飛躍の10年になりました。創業期の苦節の10年があればこそと思います。“若い時の苦労は買ってでもせよ"というその苦労が生きていたのだと思います。もう一度その苦労をと言われたら絶対にできません!妻には今日迄大変苦労をかけました。
 私は覚悟して好きな道を選んだので何の後悔もしていません。むしろ、今思えば、楽しかったことのほうがたくさんあったと思います。自分で考え、自分で行動し、一つ一つその思いを実現していったこと、良くても悪くても一人でその責任を取るんだとの思いは起業家ならではの醍醐味ではないかとも思います。そんなこと思い起こしています。
 私としては、今後50周年、60周年も40周年の時の様な祝賀会ができること、そして100年も続くような会社になっていくことを期待しております。

◆経済学部同窓会のこと◆
47Q 不肖私もそう願っています。ところで元角さんは、今法政大学経済学部同窓会の代表幹事をやり、事業部会の部長をやられておりますが、同窓会について少しお話していただきたい。
A 私は同窓会に入って4~5年程しか経過していません。

48Q 同窓会に入会された事情は?
A 法政大学の経営者懇談会というのがありますが、そこで一緒だった経済学部同窓会の副会長の森勲さんには、随分以前から誘われていました。自宅のある同じ地域にいたやはり同窓会副会長の横山昭夫さんとも知り合っていましたので、同窓会に入会し常任幹事会に参加するようになりました。社長を辞めた事でホッとしたところでもありました。

校友会愛知大会に参加した夜、友人の森さんと藤原さんと

49Q 経済学部同窓会の活動に参加されて、どんな感想をお持ちですか。
A 楽しい会だと思います。同窓会の基本は、とどのつまりそこに尽きると思います。日常の「経済的利害」関係から離れた一種の「オアシス」のようなものでなくてはいけないと思います。特定の人が「威張ったり」、「個性」を強調することになっていくと「和」が乱れます。議論は、いくらしても良いのですが、そこに出向く事が嫌になってしまったら元も子もない気がします。

50Q そうですよね。私も同窓会の創立期からお手伝いしてきましたが、昔はみんな楽しくやっていました。最近は、同窓会少し斜陽になってきているので、明るさと楽しさが欠けてきているように感じています。元角さんの発言を今後大いに生かしていきたいですね。
A 所詮、同窓会はボランテイア組織、私は、校友会にしろ、同窓会にしろ、自分のためというよりは、世のため、人のため、卒業生や大学のためと思ってやっています。おおらかな会で在るべきだと思います。これからも楽しい会になって行く事が組織拡充のための絶対条件ではないでしようか、先輩諸兄の皆さまに25年もその様な同窓会に育てていただいた事で、そのご苦労に敬意を表したいと思っています。

51Q 最後に何か一言。
A 最後になりますが、今日までの苦労と言えば、やはり家内には感謝したいということです。家内には頭が上がりません。今でこそ、社風からは妻の存在のかけらも感じることの無い会社になっていますが、10年程前までは家内は社内で大きな存在でした。
 創業期には、家内は電話番から経理、資金繰り、時には都庁まで入札にも行きました。社員が増えた頃からは、残業の食事の世話から社員の相談事、その家族の世話、そして自宅が今の場所に移ってからも、家事をこなしてから電車とバスに乗り継ぎ、毎日の通勤、夏の暑さ、冬の寒さ、そして悪天候の日も欠かさずに事務所に来ていたことを思い出します。大変感謝していることを伝えたく思います。

52Q 奥さんと二人三脚でやってこられたということでしょうか。だからこそ奥さんの苦労もわかっておられ、これまでの奥さんの貢献に率直に感謝出来るのでしょうね。元角さんの愛妻家振りの面目躍如たる所ですね。
 今回は、永い間、インタビューに応じていただき、興味深いたくさんのお話をしていただき、有難う御座いました。若い同窓生も、古い同窓生も、このインタビューを喜んで見ていただけると確信しています。本当に有難うございました。
 元角さんの「三和建装株式会社」の一層の発展を祈願してインタヴューを閉じたいと思います。

(なお「三和建装株式会社」の詳細について、WEBのホームページをご覧ください。)
「三和建装株式会社』ホームページ:
http://www.sanwakenso.co.jp/

対談を終わって握手を交わす村串名誉教授と元角さん


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