第25回森嘉兵衛賞受賞者・自著を語る
久慈勝男

日本人の二面性~好戦性とやさしさ
『日本人と馬の文化史』(2016)文眞堂


『日本人と馬の文化史』
(第25回森嘉兵衛賞B賞を受賞された久慈勝男さんに自著『日本人と馬の文化史』について語っていただいた。編集部)

本書は日本人の心性を探ることを目標として取り組んだものであるが、そのための分析枠組みとしたのは、東アジア史の中において日本人の行動と思想の特徴を探ることであった。そしてそれを補完するためのもう一つの視点として、北東アジアを経由して日本列島に到来した馬文化との関わりを追跡しそれをオーバーレイすることで、日本人の心性の隠れた側面に迫ることにした。
東アジア史を考える時見逃してならないのは、中国王朝の中華観、すなわち華夷思想がすべての事象の背景にあるという事実である。それは中国王朝に見られた思想であるが、王朝内に完結するものではなくその周辺国を含めることで成り立つ思想であり、東アジアの社会システムをなすものであった。周辺国としての日本、朝鮮、ベトナムなどは中国からは夷国として位置付けられてきた。しかし、この社会システムアが複雑なのは、これらの「夷国」においても「小華夷思想」が存在していたことである。東アジア史は中国王朝の中華観と「夷国」の「小華夷思想」が織りなす複雑なせめぎ合いの歴史であったといえる。日本の「小華夷思想」においては、朝鮮半島の南部は日本の「夷国」の一つと意識されており、「小華夷思想」が昂揚すると半島に介入し、場合によってはその宗主国として競合する中国王朝とも戦いを辞さない自尊的な心性を有していた。一方朝鮮半島の王朝は、中国王朝と近接することもあり、おしなべて中国王朝に庇護を求める形で自らの安泰を図ってきた。時に中国王朝が周辺民族の支配下に入った時代には、自らこそが中国王朝を継ぐ正統的な儒教の国であると考えた。
視点を変えて、国家レベルではなく国民レベルで見る場合でもそれぞれに違いが見られた。日本の武人は東アジアでその勇猛果敢さで定評があった。すでに古墳時代から九州地方の武人たちは朝鮮半島の王朝の求めに応じて海を渡って半島南部で将兵として活躍していた。また室町時代頃からは日本刀が中国大陸への有力な輸出品となっていた。また、関ケ原の合戦で敗北した大名家の家臣の中には、国内で雇用の道がなくなったことから東南アジアに傭兵として渡り活躍した者たちがいた。江戸初期においては、切腹することで主君に殉死するものが後を絶たないため、殉死禁止令を出さなくてはならなかった。さらに下って、幕末においては尊王攘夷思想に傾倒し、欧米の艦船にと砲撃を浴びせたり、欧米人を襲撃する事件が頻発した。明治以降には出征した日本軍人が後方支援が不足する中で勇猛に戦い、決死の突撃で欧米兵を恐怖に陥れている。
一方、馬の受容に関連して浮かんでくる日本人像は、まったく別の側面を示している。日本に到来する馬はモンゴル系の馬であったが、東北アジアから日本列島へと馬文化が南下するにつれて遊牧生活に見られる実用性や、中国王朝を苦しめた匈奴などの戦闘性への期待は縮小し、支配層のシンボルとしての役割が中心になった。また馬を列島に根付かせることは、文化の受容そのものであった。馬を育成し、繁殖させ、調教するという技の習得は馬飼いの集団の移住なしには困難であった。また、馬に装着する装飾馬具は高度な製作技術を伴ってはじめて可能となるものであり、工人集団の移住が伴わなければならなかった。これらの集団と先住の日本列島人との間に争いがあった形跡は見られない。これらの技術は生活文化も含めてスムースに受け入れられていったと考えられる。
しかし、その中にどうしても受け入れ慣れないものがあった。去勢と蹄鉄である。ここに日本人の心性の特徴の一端が示されている。去勢と蹄鉄は馬体に手を加えることである。縄文時代以来列島人にとって自然は恵みをもたらす神聖なものであった。鹿や熊などの動物もまた神聖な存在であった。その中で海を渡ってきた馬は神の乗り物であり、信仰の対象であった。その神聖なものに人間の都合で手を加えることは神を冒涜する行為だと考えたのである。馬が各地で普通に見られるようになるころには、馬による物資の輸送や農耕など実用にも用いられるようになるが、物資の輸送においては荷物の重量制限を設けていたし、農耕に使う時も過重労働にならないように気を配っていた。江戸時代には人口調査は行わなくても馬籍簿を設けて馬数を調査し、馬数が減少した時はその理由を届け出なくてはならなかった。理由次第ではおとがめを受けることもあった。また、勇猛果敢で死を恐れない武人、軍人たちが馬に関しては深い愛情を注ぐことは軍記・戦記での多くのエピソードが示すところである。
馬に示すこのような姿勢は他の東アジア諸国には見ることができない日本人特有のものである。この違いはどこから生じているのか。一つのヒントは人類史の中にあると思われる。日本人のY染色体タイプの構成を見ると、出アフリカを果たしてユーラシア大陸を渡ってきた時代の非常に古いタイプが観察されており、これは中国や韓国に見られない特徴である。大陸や半島では後から分岐したグループに圧倒されて消滅したのに対し、日本列島では生き延びたことを示している。生き延びたのは後から渡来する人々に対し好戦性を発揮するよりは、やさしさで受け入れてきたためと考えられている。好戦性とやさしさという二面性がわれわれの心の中にあることを認識しておくことは大切なことだと思われる。


付記(編集部)
本書の目次
第一章 東夷の国家形成と騎馬文化
一 騎馬文化の成立と初期的伝来
二 倭王権と装飾馬具文化
三 半島南部の覇権をめぐる争い
四 大唐帝国の脅威と東夷の国家建設
第二章  馬を制するものが天下を制す
一 平安王朝と馬の貢進儀礼
二 律令の乱れと兵の台頭
三 武士政権への道
四 徳川治世下の成長と限界
第三章 植民地支配を進める列強と東アジアの苦悩
一 開国をめぐる混乱と騒擾
二 朝鮮半島のせいはをめぐる攻防と新馬政
三 世界を巻き込む戦争と人馬の消尽
四 高度成長とヴァナキュラーの喪失
おわりに

(2017.7.17)

 

 

日本人と馬の文化史 あとがき:久慈勝男氏略歴

1944年、岩手県久慈市に生まれる。
1967年、早稲田大学第一政経学部卒。
1967年、(株)日本リサーチセンター入社。
以後、住民運動などの社会的紛争、社会思潮・価値観などを研究、同社常務取締役研究所長を歴任、また流通経済大学、
名古屋商科大の非常勤講師、雲南大学客員教授、その他政府機関委員など歴任。
現在、三陸郷土史研究者として活躍中。三陸歴史未来学会主宰
『三陸の歴史未来学』、2013年、日本地域社会研究所。
その他,編書多数。