わが青春譜―理想と幻想のソ連ロシアの谷間に―村串仁三郎(法政大学名誉教授・同窓会副会長)

 

わが青春譜―理想と幻想のソ連ロシアの谷間に―

 

1 遠いいロシア
経済学部同窓会企画のロシア旅行に参加することにしたが、それを機会に私とソビエトロシアの関係について考えてみた。
私は、2歳にして父親を失い、小学校4年卒の無学にして何の技能もない母に育てられ、しかも2歳から小学校に入学するまで幼児期を、埼玉県越谷の農村にあった母親の実家、しかもそこには母親にとって継母と腹違いの弟、そして底意地の悪い嫁のもとで、回りを意識しながら神経質に育った。
小学生から中学生の時期には、自分が母子家庭で貧しい存在だとうことが特に気になった。世の中には何故、貧しいものと富める者がいるのか、どうして成績の良い子と悪い子がいるのか、更にはどうして容姿の好い子と悪い子がいるのか、自分が下積みにいることに疑問を感じ不満を抱いたりしていた。
そうした三つ子の魂というべき思いは、思春期に入って、社会の不平等や貧富問題に関心が向った。中学生の頃には、ロシアでは資本主義国家が打倒されて労働者が政権を握って人間を平等に扱っているというような話がかすかに耳に入っていた。
学業成績は良くなかったので2流高校に通っていた頃、利潤第1主義の資本主義制度を否定し、生産手段を国有化して、労働者が経済を自主的に運営し、資本家も失業もいない理想の社会が「ロシア」に存在するというような話しが強烈な印象のもとに脳裏に入ってきた。

2 社会問題に目覚める
たまたま入学した高校は、戦時中に設立された旧東京府立第17中学校で、新制高校になって都立日本橋高校と名を変えたが、旧制のバンカラの雰囲気が残っており、中学校教員と違って先生方もプライドをもった優れた教員が多く、後に有名人にある学者も何人かいた。
私は、その内の一人、高名な玉城肇という歴史家の長男で、小説家阿部公房や評論家針生一郎が東大の同級生だったという詩人歌人の玉城徹という国語の先生に出会った。劣等感と孤独にさいなまれていた私は、それを癒すためにクラシック音楽やオペラのアリアやコーラスに親しんだが、いつの間にか同じ趣味を持つ友人が出来、その中に役者になりたいという左翼演劇青年がいて、行動を共にするようになった。
彼の誘いで私の住んでいた足立区は千住の地元青年のコーラス団体に入り、当時歌声運動が盛んになっていて、東大の音感合唱研究会というサークルから派遣された指揮者のもとで、おもにロシア民謡を歌い、地元の文化活動や政治活動に参加する機会を得た。そうしていつの間にか共産党の指導する左翼的な活動に参加し、ロシア共産党が指導するソビエット社会主義連邦共和国(つづめてソ連)を、人類の理想社会の実現とみなすようになっていった。
片や高校では、国語教師玉城先生と東大や早稲田に行っていた先輩たちの指導下に社研(社会科学研究会)があって、友人とともに参加し、スターリン著『レーニン主義の基礎』(当時の社会主義の教典)の輪読会をおこない、いつの間にかそのリーダーとなり、民青(共産党の指導する民主青年同盟という青年組織)に参加し、東大生をリーダーとする高校生を中心とする「わだつみの会」にも参加し、都内の有名校の高校生とも交流し、大きな刺激を受けた。
そうした中で、私は、ソ連・ロシアという国が、戦争もない、民族の支配も差別もない、資本主義の最大の欠陥である経済恐慌、失業や倒産、貧しい労働者や農民もない、人類の理想社会が実現しつつある国であるとの確信を深めた。
こうした思いは、私だけの例外ではなく、欧米だけでなく、中国、アフリカなど世界中の労働者農民、学者、芸術家、知識人の多くが抱いていたものであった。そうした学者、芸術家、知識人の発言が、私にソ連社会主義を理想社会の実現された歴史的事実とする確信を強めた。
私は、小さな一人の人間として、ソ連・ロシアを支持し、その国に反対する勢力と命を懸けて戦うと心に誓った。すでに高校生の私にも、ソ連・ロシアは、民主主義のひとかけらもないスターリンの独裁国であり、秘密警察が国民を抑圧し、反対者を大量に粛清して維持された全体主義国家である、という意見のあることにも薄々気づいていたが、それは反ソ連勢力が流すデマであるとする意見を信じ、そうした文書を一つとして手にしなかった。
私は、高3の夏休みに『ソ同盟共産党(ボルシェビイキ)史』モスクワ、1950年刊(全575頁)の大著を頭に鉢巻を締めて読破して、如何にしてソ連がスターリン率いるボルシェビイキ党の指導によって建設されたかを理解した。それにしても、共産党内から何と多くの裏切り者・スパイが輩出し処刑されたかに気付いて驚いたが、その意味を理解できなかった。

3 社会主義への揺らぐ想い
高校卒業に際して、進路決定に迷った。私は、たいした能力はないが、小説家になって、労働者のための小説を書き、社会主義運動のために身をささげるか、まだ社会主義の理論を身につけていないので、大学に行って勉強すべきか(本当はそんな経済的余裕はなかったのだが)、思い悩んだ。折衷案として、働きながら夜間大学で学ぶ道を選んだ。
大学に入って共産党に入った。昼は町工場で働いたり、トラックの上乗りをやったり、カバン職人の兄を手伝ったり、米軍キャンプでハウスボーイをやったりしながら、法政大学の社会学部の夜間部で、学生運動と共産党の活動に熱中し、社会運動、組織活動について多くを学んだ。
私の大学時代にソ連・ロシア問題で重大な出来事が続いた。
その一つ。1953年にスターリンが死んだ。私は、この偉大な指導者の死を心底悲しんだ。これからソ連・ロシアはどうなるのだろうか、不安が募った。しかし事態はとんでもない方向に舵を切った。ソ連共産党書記長フルシチョフが1956年のソ連共産党20回党大会で、秘密報告を行ないスターリンの独裁の罪業を批判したというのだ。
私の信じてやまない日本共産党は,当初それを無視し、アメリカのCIAのでっち上げ文書と批判した。私は、暫くそれの言辞を信じ、「フルシチョフ秘密報告」を手にしなかった。
しかし「フルシチョフ秘密報告」はどうも本物だと言われ始めたので、ついにそれを読んでびっくり。
スターリンは、レーニン死後、党内の論敵を、反党分子、反革命分子、スパイ、資本主義国の手先、売国奴として、秘密警察を動員して逮捕し、多くは裁判にも掛けず処刑した。その数は、共産党幹部数万とも数十万とも言われ、また一般の党員と非党員合わせて数百万人とも指摘された。更に集団農場化に反対した農民数千万人が殺されたと言われた。スターリンは、神格化され、誰も批判出来なくなかったと指摘された。
ソ連社会ほど民主的な国はなく、人間的な社会と教えら、信じてきた私には,信じられないことであったが、どうやらソ連社会は、そうした社会だったのではないか、と納得せざるを得なかった。しからば、何を信じてこれから生きていくのか。私は1週間ほど眠れぬ時期をすごし、暫くノイローゼになった。この悩みに苦悶し、それに耐え切れずに自殺する仲間も生まれ、多くの仲間が絶望して社会主義運動、共産党から離脱していった。

4 苦悩の中を行く
冷静に考えれば、「フルシチョフ秘密報告」とは別に、世の中には、「ソ連社会」批判は、溢れていた。1920年代から、ロシア革命に参加した人たちや多くの欧米の知識人たちは、スターリンの独裁体制が強化され、スターリン的な社会主義国家が整備されていく過程で、当初掲げられた理想の旗を降ろして非民主的、非人道的、残忍になっていくことに批判的になり、反ソビエットになっていった。
例えば、そうした人たちの証言を集めたグロスマン編『神は躓く―西欧知識人の政治体験―』が、1950年に出版され、日本でもすぐに翻訳されていた。
イギリスの文豪バーナード・ショー、フランスの大文豪、『ジャン・クリストフ』、『魅せられたる魂』の作家ロマン・ロラン、『狭き門』のアンドレ・ジード、数えればいとまがないほど多くの欧米知識人が、出来たてのソ連を熱烈に支持していたが、スターリン体制が強化されていく中で、支持を放棄していった。
しかし多くの共産主義、ソ連の信奉者・支持者は、そうした批判に耳を傾けなかった。しかも、スターリン率い入るソ連が、ナチス・ドイツ侵略に抗した祖国防衛戦争に勝利し、人民を犠牲にした科学や経済の開発の成果を背景にして、ソ連社会の欺瞞性が歴史の後ろに隠蔽され、スターリンの独裁と神格化が一層すすめられた。
私だけでなく世界中の真面目で素朴な共産主義とソ連社会の信奉者は、「フルシチョフ秘密報告」以後、フルシチョフ報告を本物と判定するようになり、ソ連社会がただならぬ間違いを犯してきたのではないかと疑問を抱くようになった。

5 真理を求めて
私は、優秀でもなく人並みの人間として、ソ連社会主義を信奉してきたが、それは、共産党の活動家や理論家、あるいはマルク主義学者の主張する社会主義論、ソ連社会論を何の疑いもなく信じてきたのであった。私は重大な決意をおこなった。学生の終わりに卒論を書くにあたって、私は、これまでと違って、他人の理論や学説を簡単に信じるのではなく、自分の頭で考え、自分の力で真理を判定しようと、小さなテーマを卒論(後に博士論文となる)に選び、先学の意見に学びながらも、1年かけて自分の足で資料をあつめ、自分で分析し、完成して、先生に褒められた。初めての経験であった。
そしてまた、スターリンが誤ってしまった社会主義建設の理論のもとになったマルクスの理論がそもそも何であったかを確かめるべく、大学院でマルクス経済学を学ぶことになった。
しかしその最中にである、それは日本中を政治の季節に巻き込んだ安保闘争の最中であったが、私は、共産党中央の方針に反対して共産党を除名されてしまった。その時の感慨は、党という規制から解放されて自由に物事を考えることの喜びと、政治集団から外された孤独感であった。

6 幻想から目覚めて
大学院生の時にもっぱらマルクスについて学んだが、ソ連社会主義とは何だったかについても少しずつ学んだ。幸い、大学で職を得たので、マルクスについては、資本論を中心に頭からマルクスを信じるのでなく、自分の力で彼が論じている理論が本当に正しいのかとの批判的立場から研究した。マルクスの理論を基本的に擁護する『賃労働原論―資本論第1巻における賃労働理論―』を出版した。
ソ連社会主義については、当初、スターリンが誤った社会主義を建設したにしろ、ソ連共産党は、その誤りをただし、真の社会主義の再建をおこなってくれることを期待した。「雪どけ」というキャッチフレーズでそうした兆候が生まれていた。
ハンガリーやチェコスロバキア、ポーランドなどの東欧の社会主義国で民主化の動きが生まれ、人間の顔をした社会主義を求める運動が起きると、それに反対する国内勢力がソ連の軍隊を導入してその運動を軍事的弾圧した。
私は、ソ連はもはや改善の余地のないただの帝国主義になってしまったと認識した。その後、1985年にゴルバチョフという指導者があだ花の如く出現し、ソ連の改善の兆候を見せたが、1991年にゴルバチョフが辞任し、ソ連邦が崩壊し、1917年に成立した一党独裁国家は消滅し、その影を色濃く残した国家主義的変形資本主義社会に戻ってしまった。

7 さようならわが祖国
そして私のロシア社会主義への理想が壮大な幻想であったことを思い知らされた。若き血潮を燃えたぎらせ、わが祖国と断じていたソ連社会主義国は、調べれば調べるほど、研究すればするほど、あのヒットラーのナチス・ドイツに引けをとらない、民主主義のひとかけらもない、非人間的で、残忍冷酷で身もよだつ恐ろしい警察国家だったことが明らかになった。そして私は、ソ連とさよならをした。そしてソ連を生み出したマルクス主義とも決別した。マルクスは信じるものではなく、あくまで研究すべきものである考えた。
今は、ロシア皇帝の再来ともいわれ、スターリンを賛美するプーチンがロシアを支配している。プーチンに反対する人たちをいとも簡単に毒殺りたい暗殺するプーチンのロシアを訪ねることは、何としても許せない。そう思ってきた。しかし齢82を迎え、昔、裏切られたロシアという恋人に絶対会いたくないという想いと一度は会ってみたいという複雑な思いが交差した。
同窓会のロシア旅行企画が発表され、私は、幻想を生んだソ連・ロシアでなく、幻想から覚めたありのままのロシア、それは、革命以前に作り上げあげられ、幻想の社会主義を生み出す素になったロシアを一目見ておきたいと思った。

8 ロシアについて最近読んだ本
グロスマン編『神は躓く―西欧知識人の政治体験―』(ぺりかん社)(再読)
パステルナーク『ドクトル・ジバゴ』(新潮文庫)(再読)
ヴォルコフ『ショスタコービッチの証言』(中公文庫)(再々読)
横手慎二『スターリン「非道の独裁者」の実像』(中公新書)
亀山郁夫『大審問官スターリン』(小学館)
亀山郁夫『磔のロシア』(岩波書店)
ロシアについては、専門書がたくさんあるが、ウエッブの「ウキペディア」の『ロシアの歴史』が簡単で分かりやすい。

著者略歴
1935年 東京生まれ
1958年3月 法政大学社会学部(2部)卒
1969年3月 法政大学大学院経済学専攻博士課程満期退学(1982年経済学博士取得)
1969年4月 法政大学経済学部特別助手就任、翌年専任講師
1980年4月 同 教授
2006年3月 同 退職(以後、法政大学名誉教授)
専攻 労働理論、鉱山労働史、国立公園史