村串名誉教授の「卒サラ・起業家インタビュー・シリーズ」
眞栄田義己(まえだ よしみ)さん


卒サラ・起業家インタビュー・シリーズ第4回
「沖縄を出奔して、東京へ世界へ雄飛!」(後編)

2013年12月11日   

 

【眞栄田さんのプロフィール】

1958年 沖縄恩納村生まれ。那覇の高校を卒業、上京、1977年4月法政大学経済学部に入学。
1981年 3月大学卒業後、4月に旅行会社ユニオンインターナショナル株式会社(現JALトラベル)に就職。10年間ほど旅行業務に専念。
1992年 モスクワで合弁会社ITファルコンを設立し、貿易業務をおこなう。2006年に貿易業務に大きな障害が生じ、退社。一時、国内大手損害保険会社に勤務し、2006年から現在まで、ロシア・ウクライナ・ベラルーシア商工会の代表として活躍。

 インタビューアー = 法政大学名誉教授 村串仁三郎

≪起業・ファルコン企業時代≫

Q 平成5年、つまり1993年合弁会社ITファルコンを設立して代表者となられるわけですが。その起業事情をお話し下さい。
A 旅行会社を辞めた後、東京に本店を構える㈱ファルコンに就職いたしました。不動産業がメインの会社でしたが、貿易部門を設立してもらい自由に私が貿易業務を行える環境をつくっていただきました。
そこで兼ねてより温めていました旧ソ連邦との貿易業務を始めました。そもそもなぜ旧ソ連邦だったのか?を話さねばなりません。複数の動機付けが複雑に重なり決断しました。大きな動機付けから順に並べてみます。
第1に、旅行業界への見切り。
第2に、貿易業への執着。
第3に、ソ連邦崩壊直後のビジネスチャンス。
第4に、スパイ小説の多読。
第5に、冷戦時代沖縄に米軍基地があるロジック(共産主義のドミノ理論)の解明。
第5の動機についていえば、ソ連の脅威を防ぐため地政学的に沖縄が必要だという現在の中国脅威論と同じロジックがありました。赤い帝国を調べた沖縄のジャーナリストや左派政党である沖縄社会大衆党の政治家は、私が知る限り一人もいません。ほんとにそうなのかと自分の目で見てみたいとの内なる動機がありました。体験上ソ連はまったく日本への侵攻の意思はなく、ソ連脅威論は、アメリカ軍産複合体の情報操作であり、日本が戦後、自国で自国の国を守る意思を失いアメリカに守ってもらい、さりとて近くに米軍基地があっては困るとのいうエゴの延長線に成り立っており、原発が地方にあるのと同じ実態だったですね。

 

Q 旧ソ連邦との貿易業務の開始には複数な動機があったのですね。詳しくお聞きすると、面白そうですがですが、先を急ぎましょう。ファルコン社の設立の詳しい事情をお聞かせください。
A まずモスクワ郊外のドゥブナ市に、1993年にITファルコンの合弁会社を設立致しました。ドゥブナ市は、モスクワ市内から北西約100Km離れた原子力研究都市で、ソ連邦時代には地図に掲載されていない軍事上極秘都市でさしずめ日本の筑波市のようなところです。

 

モスクワ大学前の眞栄田さん

 

 合弁相手はドゥブナ銀行で、間をつないだ方はロシア科学アカデミー日本アフリカ研究所のプロホージェフ所長でした。この方は、後に私にとってロシアの父のような存在となりました。ロシア進出の際、科学アカデミーとの人脈は、後々良質な縁を構築する貴重な財産となりました。
2年後にベラルーシにベラファルコンを設立する事になりましたが、合弁相手は外務官僚でプロホージェフ所長の教え子でした。プロホージェフ所長の前職は軍事大学の学長でしたので軍事大学出身の外務官僚という事になります。

 

Q 起業は、ロシア科学アカデミー日本アフリカ研究所所長プロホージェフさんとの出会いから始まったわけですね。
A そうです。余談になりますがドイツのロシア研究とロシアの日本研究は、世界的に知られていますが、ロシア科学アカデミーの中枢機関がロシア科学アカデミーアジアアフリカ研究所です。
ロシア科学アカデミー日本アジアアフリカ研究所の日本研究員は100名程いました。あらゆる分野の専門家集団が、徹底的に日本の情報を収集し分析していました。何気なく日本文学研究者に日本の感想は?と質問した際、「うら若き青年のような魅力を秘めた国です」との回答に、己の陳腐な質問に恥じた記憶があります。
ちなみに諜報活動は、ロシア語で最も有名な単語KGBの領域ですが、科学アカデミーは、純粋に学術的研究機関ですので誤解の無いよう願いします。

 

Q ITファルコン社はどのような事業をおこなっていたのですか?
A まずITファルコンの主業務は、日本製中古車の販売でした。極めて複雑な輸入手続きで販売許可を取得した後、ロシア最大のマーケット、モスクワ市で日本製中古車の販売を開始しました。登記上の事務所はドゥブナ市ですが、モスクワ市内の2カ所に販売所を構えました。

 

赤の広場・ワシリー寺院の前の眞栄田さん

 

Q ファルコン社の当初の陣容は?
A 日本人は、私1人でした。現地社員は、スタート時10名、2年後に約40名になりました。全員が白系ロシア人のスラブ人でした。各々の出身地は、半分以上はロシア、その他ウクライナ、ベラルーシ、アルメニア、グルジア、モルドバ等でした。
出資比率は50対50で、合弁相手のドゥブナ銀行幹部は、全員ユダヤ系ロシア人でした。余談ですが、アメリカについでユダヤ人が多いのはロシアで、ビジネスはユダヤ系ロシア人との交渉が多かったです。

 

Q 合弁会社とした設立理由は、どういうことでした?
A 単体で会社設立するには、法的、情報量、人脈、資金すべてにおいて対応できなければなりません。合弁会社は、税制上の優遇措置があり、合弁相手に不足はなかったためです。
当時のロシアは、現在の中国のようにモータリゼーションがスタートする時代の先駆けで「車を持たずば人にあらず」の時代風潮でした。人気の日本車は仕入れが間に合わないほど売れに売れました。ソ連崩壊直後のロシアでは、西側の自由な象徴として車があったようです。トヨタ・ニッサン等メーカーのエンブレムが頻繁に盗まれました。ちょうど私が小さい頃アメ車のナンバー等を飾って、気分はカリフォルニア風といった感覚と同じだったと思います。

 

Q その後のビジネスは、どう発展していったのですか?
A 会社設立の2年後からは、ロシアの軍需工場より光学製品、望遠レンズ、パノラマカメラ、ナイトスコープなどを仕入れ、日本に輸出もはじめました。
一時期ロシア製暗視スコープが通販・専門誌及び新聞にも掲載されたのを見た記憶はございませんか?あれがそうです。

 

Q すいません、わたしはそういうことにうとい者で全く見たことがありませんでした。
A これも余談になりますが、第二次世界大戦が終了し、ドイツがソ連に敗れた結果、沢山のドイツ技術者がソ連に移住し軍事生産に参加していました。ロシア製光学製品もそうでして、ドイツのライカ等の技術が加わり、国際基準の品質でした。

 

Q なるほど。ちょっと特異な商品を取扱ったのですね、ほかには?
A 1994年にお隣のべラルーシ、ベラはロシア語で白、ルーシはロシアの意味で、昔は白ロシアと学校では習いましたが、べラルーシの首都ミンスクに合弁会社ベラファルコンを設立し、モスクワと同じように日本製中古車の販売を開始しました。

 

Q 合弁会社ベラファルコンの当初の陣容は、どんなだったのですか?
A 日本人は、ここでも私1人です。現地社員は、スタート時に4名、2年後に約8名となりました。全員がベラルーシ人でした。出資比率は、ここでも50対50です。合弁相手はベラルーシ外務省職員でした。

 

べラルーシ国会前のレーニン像

 

Q ベラファルコンを合弁会社として立ち上げの理由は?
A モスクワが順調に伸びていましたので、その他の地域への拡大を図り、場所の選定では、個人的にはモスクワの北、旧都のサンクトペトロブルグに行きたかったのですが、ロシア科学アカデミーの推薦だった事もありすんなりと合弁先をベラルーシ外交官に決定しました。
20年後に私に天命をいただく事になりましたので、今から思うと右へ行くか左へ行くかの分岐点だったようです。気づかないだけで、人生はそのような連続性で成り立っているようです。

 

Q 日本とベラルーシの関係は、当時は全く珍しかったでしょうね。
A ベラルーシでの合弁会社は、日本とベラルーシの合弁1号だった事もあり現地では大変な脚光を浴びました。調印式にはベラルーシのマスコミ・貿易省・首相も参加し、事の重大性に身が引き締まる思いでした。たまたま合弁相手が外交官、後の初代駐日ベラルーシ全権大使でしたので、外務省との深いパイプが形成された結果が、現在、私がベラルーシ商工会日本代表となることになりました。

 

Q ロシア圏でのビジネスは、相当に困難だったと予想されますが。
A 崩壊直後のロシアのカオスは、筆舌に尽くしがたいものがあります。ビジネス・ファンダメンタルがなく、ビジネスというよりギャンブルに近い環境にありました。例えば貿易のいろはのLC決済が出来ない、日本から送金する際、日本の銀行は事故があってもいっさい責任を負わず責任を追及しないとの書類に署名を要求され、送金されたお金がロシアの指定銀行にいつ着金になるか分からず、着金するだけで振込み手数料が送金金額の5%にもなるなどまったく不透明でした。ましてやロシアから日本への送金は至難の業でした。

 

Q 素人目にも大変だったと想像はつきますね。
A 私が一番悩まされたのは、社会主義の悪しき平等慣習がソ連崩壊後も厳然と残っていたことです。国は崩壊しても人のメンタルは、すぐに資本主義の精神にならないと、つくづく思い知らされました。
日本人にはまったく理解出来ないでしょうが、1人で出来る仕事を2名、3名に分業し、お互いが不可侵条約を結び、干渉しあわないという非効率きわまりない無責任労働体制になっていました。ソ連体制が崩壊したのも容易に理解できました。
スーパーで日用品を買うにも、まず商品棚に行き、何を何個買うと売り子に意思表示し、売り子は購入書を作成し、それを持ってキャッシャーで支払い、その領収書を持って先の売り子に戻り、始めて商品を受け取ります。売り手市場ですので、新聞紙に商品を丸めて投げ捨て状態の接客態度で、いちいち感情を逆なでされ、初期の頃は胃に穴が空くかと思ったくらいです。
社会主義時代には、国民全体が公務員ですからサービスの概念は、全くありません。マクドナルド・モスクワ1号店で店員に教えるのが最も難しかったことは、笑う事だったとの報道がありましたが、非常に良く理解出来ます。お客様は神様ですと説得したら、私は精神分裂病患者に指定されていたでしょうね。
私が思うに、ソ連崩壊直後のロシアのカオスの最大の原因は、規範が喪失してしまった事にあると思います。

 

Q 私もふくめ、恥ずかしいことですが、お目出度くお人好しで理念しか信じなかったマルクス主義経済学者は、ソ連計画経済の実態もソ連崩壊前後の実情も何も見ようとしなかったのですね。
A 「偉大なもの汝の名はスターリン大元帥」。ロシア革命から延々と社会主義教育を叩き込まれた国民は、自国政府がスターリン批判をしたため、何が正しく何が悪いのか、何を信じれば良いのかわからなくなったのでした。国全体が不信感の渦の中に投げ込まれ、規範が喪失すると社会生活が成り立たなくなるという強烈な現象を垣間見る経験を致しました。
もう少し具体的に説明致しますと、マフィアという言葉がありますが、それは、いち早くキャピタリズムでお金を儲けたニューリチ層に、まだマルクス経済から脱却出来ず後れをとった者たちが、軽蔑と羨望を込めたて使用した言葉です。狭義の意味で、アメリカのマフィアといったものと同じですが、日本の反社会勢力を意味する言葉とは異なる事も、その時理解した次第です。
余談になりますが、私の顔は、ロシア人がイメージする日本人の顔でないらしく、グルジア人に似ているとの事で、勝手にグルジア・マフィアと恐れられたようでした。知らぬは本人のみでした(笑い)。グルジアはマフィア勢力が強い地域です。

 

グルジア人風の眞栄田さん

 

 ソ連邦崩壊直後は、例えれば日本人にとって、戦後、現人神(あらひとがみ)であった天皇が人間宣言をされたような、その後の国の行く末を変えるとてつもなく大きな規範の変化をもたらした時代だったと思います。

 

Q ソ連時代・ソ連崩壊直後のロシア圏のビジネス環境は、そうとうひどい状態だったのですね。そこへよく飛び込みましたね。だからギャンブルだった?
A 最初からギャンブルと意識していたわけではありませんが、ロシアのカオス状態には臨機応変に対応をせざるをえず、今から思うと映画のような荒業仕事もしました。
少しでも安くモスクワまで車を輸送しようと、横浜大黒埠頭に接岸するロシア船籍の船長と直接交渉し、非常に安い輸送費で黒海にあるウクライナのオデッサに荷揚げさせ、車の台数分の運転手を雇い、先頭・中心部・最後尾に銃を装備させた用心棒でガードしながら、ウクライナの危険地帯を通りモスクワまで自走で運んだものです。
Q まさに映画のシーンを観るようですね。
A アメリカと異なりロシアは、銃規制が厳しいため、個人が銃を所持していませんが、ソ連邦時代は徴兵制ですので銃の扱いは皆当たり前のように出来ます。その頃は、チェチェン共和国紛争や10月政変といわれ、1993年10月に、ロシアの新憲法制定をめぐって当時 のエリツィン大統領と、バズブラートフ最高会議議長・ルツコイ副大統領を中心とする議会派勢力との間いで起きた政治抗争がありました。モスクワ騒乱事件とも呼ばれ、騒然とした情勢でした。
いつも戦争が近くにある危機意識がありましたので、自然と五感が研ぎ澄まされ、レストランで食事をする時でも、入口に背を向ける席を選ばず、いきなり銃の乱射や手榴弾が投げ込まれても、いつでも逃げる場所が確保出来なければ食事をしませんでした。
それに加え苦しかったのは、1年の半分を占める極寒の寒さです。寒く暗く忍耐を要求される冬です。沖縄出身の私でなくとも誰にとっても越冬は極めて厳しい環境だったですたかが、風邪が命取りになるぐらいですから、少しでも体調の異変があると、すぐに日本製の常備薬を飲んで休んでいました。誰も看病してくれないという環境では、緊張していたのか不思議と風邪をひかなかったです。ちなみに今は毎年風邪をひいています精神が弛んでしまっているのですね。

 

極寒のモスクワ郊外の小さな駅のプラットホームに立つ眞栄田さん。誤解のないように、ロシア婦人は科学アカデミー日本研究者の奥さんとそのお孫さんです。
Q 旧日本兵のシベリア抑留を思い起させますね。よく生き残ってこられた。
A 極寒の寒さを体験したため、シベリア抑留の本を読む勇気がありません。
どれだけ大変だったか肌感覚で分かります。
あれから、20年ロシアのビジネス・ファンダメンタルは、現在では整備され、LC決済も可能になり、通常の貿易が可能ですし、対共産圏輸出規制(いわゆるココムですね)もありません。資本主義の精神も完璧ではないにしろ、外国資本のスーパー・百貨店・ホテルのサービスは、日本と変わりません。誤解のないようお願いします。少し早くロシアに行きすぎ、しなくていい苦労をしてしまっただけの事のようです。

 

Q 合弁会社ファルコンは、大変な成功でしたね。
ところで、ロシアでのビジネスには、ロシア語が必要だったと思いますが。
私ごとで恐縮ですが、ロシア語といえば、大学時代、第2外国語として少し勉強しました。大学院生のときに、金に困ってロシア語の翻訳をしたことがありました。
戦前にソ連物の翻訳をしていた共産党の幹部だった高山洋吉さんという方が、戦後に刀江書院の社長をしておりまして、その社員で知り合いだった黒羽君に頼んで、ソ連の世界経済・国際関係研究所編の『世界経済年報』(1969年版)を翻訳・出版させてもらいました。貧乏院生の生活費の3ヶ月分の印税をもらって大喜びしたことが思い出されます。
私にとってソ連は憧れの理想の国だったのです。その後も、ロシア史にのめり込んで、それを生涯の研究テーマにしようとした考えたこともありましたが、ロシア史では食っていけそうにないので、ロシア史研究を諦めました。でも諦めてよかったと思っています。別の研究テーマで大学教員に採用されましたので。
話が横道にそれてしまいましたが、ロシアでのビジネスには、ロシア語が必須ですが、ロシア語はいつ、どこで学んだのですか?
A 最初は英語が喋れれば事は足りると思っていましたが、愕然とする勘違いでした。確かにロシアでは、ビジネスマンは英語を喋る人が多いのですが、両極端で英語を喋れないロシア人は、日本人が英語を喋れない人より喋れません。日本では英語がそのまま日常語として使える単語となっているものが多くあります。ホテル、スーパーなどですが、ロシアではガスチーニツァ、ウニベルマークと英語表現をしませんので、まったく会話が成り立ちませんので、致し方なく仕事の合間にロシア語を学ばねばなりませんでした。ロシア科学アカデミー日本経済分析学者に教えていただきました。語学を習得するのがいかに大変か、皆様も英語学習で身に染みていると思います。ロシア語の特に文法習得は困難を極め辛い作業でした。1日5単語を覚える作業も2年続けました。しんどかったです。

 

マシンガン・カラシニコフの実弾射撃に興じる眞栄田さん

 

Q そんな苦労もされたのですね。でも、外国語が不得意な私からみると、よくまあ、頑張ってロシア語をものにしましたね。
ロシア、ベラルーシでのビジネスは、前途洋々といった感じでしたが、起業後9年にして、ファルコン社をお辞めになりましたね。どんな理由でお辞めになったのですか。
A いくつか理由はありますが、最大の理由は、ロシア政府及びベラルーシ政府が右ハンドル車の輸入を突然禁止したため、日本車のロシアへ輸出ができなくなったことです。日本車の運転の禁止ではありませんので、すでに買った人はOKだが、これから先はNGといったものです。
カオス状態は、法律全般すべてに及び、税率・公定歩合・デノミ変更等、ある日突然発表される状態でしたので、予測が難しくリスク管理が出来なかった事が敗因でした。
対応策とし2台で1車、つまり同じ車種2台を真ん中から切り、右から左へ変える方法など色々しましたがうまくいかず、また光学製品の輸出のみでは社員の生活を守れなくなり、力尽きて会社を閉め日本に帰国しました。

 

Q 右ハンドル車の輸入を禁止した理由は何だったのですか?
A エリツィン大統領がアルコール中毒で統治能力が無かっただけの単純な理由ではなく、その時は知るすべもなかったですが、後に分かった理由は、マフィアの力関係で、ウラジオストックの東から安い日本製右ハンドル車が押し寄せるのを、西の左ハンドルのドイツ車中心のモスクワマフィアが、政治家に圧力をかけ、輸入禁止措置に踏み切らせたのが理由だったようです。

 

Q 眞栄田さんがお辞めになった後、ファルコン社はどうなったのでしょう
A 抹消手続きを済ませてきましたので、ファルコン社は地球に存在していません。沢山の人脈と思い出のみ残っています。おかげで世界最高レベルのバレーを鑑賞し、グルジア料理を食べ、アルメニア産のブランデーを飲み、最高の贅沢をさせてもらいました。旧ソ連邦の皆様へ感謝のみです。

 

Q ファルコン社での活躍を振り返って、一言。
A 人生を2回生きる経験をさせてもらった充足感、達成感があります。死ぬ瞬間、あれもやればよかったなどの後悔がたぶん無いと思います。将来の姿は、今何をしているかで決まるとは良く言ったもので、人生の連続性もはっきり理解出来ます。現在の要職も過去からのお土産のようなものですから。

≪ サラリーマンへの復帰、そして保険代理店として独立 ≫

 

Q ファルコン社退社後、国内大手損害保険会社に就職され、再びサラリーマンとして4年ほどそこで働いていたようですが。
A 帰国後は職探しから始めました。ロシア関係の商社でも良かったのですが帰国後またすぐにロシアへ行く気力はなく、国内での職探しを始めました。その結果、損害保険会社に就職いたしました。
新種保険の機械保険、施設賠償等をドアノック商品にし、埼玉・神奈川中心の産業廃棄物の中間処分業者にダイレクトメールを中心とする営業を展開し、3年間で全国1位の月別実績を6回あげました。
都内にある駐日大使館に営業をかけ、大使、領事、書記官などの使用の自動車保険および火災保険の契約を取り付けておりました。3年間で生保合算最終実績は6700万円という新記録を樹立しました。自慢話のようですみません。

 

Q 眞栄田さんは、サラリーマンとしても再び大活躍ですね。仕事の目の付け所が並ではないですね。どいう心構えというかアイデアで仕事を見つけたのですか。
A 私の仕事の取り組み方は、一貫して人と同じ事を絶対しない事に尽きます。
産廃業界は保険の宝庫にも関わらず怖いから行かない、大使館は英語が喋れないから行かないと自分で出来ない理由をつくっていましたので、競争相手が少なく、取りたい放題状態でした。勿論業界のニーズも研究したうえでの営業でした。短期間で損保4つ生保3つの計7つの資格試験にも合格しなければなりませんので、多忙な日々でした。

 

Q お聞きしているとなるほどと思いますが、いざ自分で実行するとなると大変な決断と努力が必要だったでしょうね。ただただ感服するのみです。
この会社を4年でお辞めになって、損害保険会社の代理店として独立されましたね。
A 帰国して3年ほどした頃、ベラルーシの合弁会社ベラファルコンの合弁相手である外交官が、驚いたことに初代ベラルーシ大使として赴任してきましたため、縁が切れたかに思えたベラルーシとの縁が再び復活し、要望もあり時間の許す範囲で、ボランティア的にベラルーシ大使館へのサポートを始めました。さきにお話しした大使館への保険営業は、ベラルーシ大使の紹介から末広がりに広がっていきました。

 

Q ファルコン社はなくなったけれど、ファルコン社で培った人脈が、日本で花咲いた感じですね。人脈といっても、単なる人脈ではなく、眞栄田さんが作り出した特別な人脈ですね。ファルコン社で培った人脈からさらに何が始まったのですか。
A ベラルーシ代表団の来日の招聘状の作成、手配、それに講演会の手配に、通訳とありとあらゆる仕事をこなしました。ベラルーシ商工会から日本への輸出及び輸入などのために、日本企業への橋渡し役の要望が多くなました。片手間でやっているわけにもいかなくなり、ベストの対応を考慮し損害保険会社の社員を辞め損害保険会社の代理店となる事により時間の拘束を離れ、自由な体制で大使館の仕事への対応をするようにしました。それが高じて正式に商工会日本支部長に任じられ現在に至っています。

 

ベラルーシ商工会会頭からベラルーシ商工会日本支部長に任命される眞栄田さん

≪ ロシア・ウクライナ・ベラルーシ商工会日本代表に ≫

Q 損害保険会社を退職されてから、ロシア・ウクライナ・ベラルーシ商工会日本代表になられていますが、ロシア・ウクライナ・ベラルーシ商工会という組織は、どんな組織なのですか。
A 設立はソ連邦崩壊後になります。組織体系は日本の商工会と変わりません。加盟企業はベラルーシで35000社、ウクライナで60000社、ロシアに至っては完全に把握出来ていません

 

Q この商工会で代表である眞栄田さんは、どのような活動をされているのですか?
A 日本への輸出及び輸入、合弁の橋渡し、日本の商工会との連携、代表団来日のコーディネイト及び招聘状の作成等々多岐に渡ります。各大使館の通商代表部とも連携しますの、かなりの密度で商工会と外務省が情報を共有して動いています。
現在最も精力を注いでいる案件は、チェルノブイ原発事故がらみの放射線測定器ビジネスです。28年前にチェルノブイ原発事故で最も被害を被ったベラルーシは、放射能線量計含め、除線方法、食品の数値、体内被曝治療等あらゆる面で日本がお手本とすべき国です。
現在の在日全権大使は、ロシア科学アカデミーの副総裁で、放射能の専門家も日本に赴任されています。日本政府に働きかけ、昨年食品のセシウムの基準値を100ベクレル以下としたのは、ベラルーシの基準値を取り入れたものです。政府、学者、草の根活動家を含めあらゆる面で、ベラルーシとの全面交流があり、今年の夏も多くの福島の子供たちがベラルーシへ治療に行くプロジェクトをアシストしました。

 

Q 偶然とはいえ、眞栄田さんは、ベラルーシとの人脈を通じて、今世界でも最もホットな問題である原発事故問題で、日本とベラルーシの交流をすすめているのですね。それは、かつてJALトラベルで働いていた時に、海外との文化交流の橋渡しをされていたとき以上に大きな社会的意義のある活動ですね。

 

ベラルーシ商工会の役員の方々

 

A 話は28年前にタイムスリップしますが、ウクライナで起こったチェルノブイ原発事故は、たまたま風向きで北西にあるベラルーシが放射能汚染最大の被害にあってしまいました。私はその6年後にベラルーシの南部の汚染地区ゴメリ州で車を販売していましたので、間違いなく体内被曝をしていたと思います。
世界広しといえどチェルノブイと福島の両方のセシウム137を体内に入れた僅かの人間の一人かと思います。

 

Q それはまた驚きですね。
A 前項で天命の下りがあったと話しましたが、ここで私に天からの指示があったと思いたいのですが。日本は放射能除染土壌をフレコンバック(トン袋)に詰め、仮置き場に放置状態で、最終処分地はおろか中間処分地すら決まらずに、根本的除染作業が出来ていないのが現状です。私は、日本の国難に福島の救世主となるべく、汚染土壌の数値を計測する汚染土壌専用線量計をつくり上げる事に取り組みました。これが完成すると高濃度汚染土壌とリユース可能な土壌の選別が可能になり、仮置き場の土壌が半減する事になります。

 

Q その仕事も大変日本にとって意義あるものですね。
A ベラルシーの線量計メーカー5社の中、民間企業最大のP社と輸入独占販売締結し、放射能センサーのコア部分を輸入し、日本のリーディングカンパニーと製造委託契約を締結し、組み立て作業を日本でして完成品にするプロジェクトを始め、1年半がかりでこの10月にやっと世界初の試作器を完成させました。これから実証実験を福島でした後、プレス発表になります。マスコミ発表になったおりには私のことを思い出してください。

 

眞栄田さんの企画した放射線計測機
 
Q マスコミ発表の時を待っています。最後のほうの話には、圧倒されてしまいました。この業界での仕事も、眞栄田さんらしいユニークなものですね。
これまで眞栄田さんに卒サラのお話をお聞きしてきたわけですが、とくに卒サラのところだけでなく、サラリーマン生活や眞栄田さんの生き方についてのお話など、実に興味深いものがありました。
長い間、お話を伺わせていただき有難うございました。本当をいえば、もっと細かな話を伺いたいとことでしたが、ここらでお開きとしましょう。
最後に、経済学部同窓会のことについてお聞きした。同窓会に最近お入りになられたようですが、どういう契機でした。

A 私が法政大学の出身と知っていた知人の紹介で、経済学部同窓会副会長の大沼徳太郎さんを紹介いただいた事が参加させていただく直接のきっかけになりました。卒業以来大学に足を運んだ事もなく、このような活動があった事も知らず、まったく縁がありませんでしたので、自分のアイデンティティーの確認が出来た事を深く感謝しています。また私が去年までそうであったように、何万人もの卒業生がこのような活動を知らず孤立して日々生活を送っています。1人でも多くの卒業生に、この会の意義と存在を知らしめ、参加いただく活動をしていきたいと思っています。最後に私ごときをホームページに取り上げていただきましたホームページ部会の皆様に心より感謝いたします。

С любовью из России. Большое спасибо !
(スリュボーヴュ・イズ・ロッシィ ボリショイ・スパシーバ : ロシアより愛をこめて どうもありがとう!)

 

握手する眞栄田さんと村串名誉教授
 
Q 有難うございました。
眞栄田さんの、今後のさらなるご活躍を期待しております。


前編はこちらです↓
「沖縄を出奔して、東京へ世界へ雄飛!」(前編)