村串名誉教授の「卒サラ・起業家インタビュー・シリーズ」
中村清彦(なかむら きよひこ)さん

「卒サラ・起業家インタビュー・シリーズ」>第5回「中村清彦さん」


卒サラ・起業家インタビュー・シリーズ第5回

脱サラしてラーメン屋を開業・そして
ラーメン業界の頂点へ

2015年6月15日

【中村さんのプロフィール】

東京 池袋生まれ。
1989年埼玉 立教高校卒
1995年法政大学経済学部卒
1995年株式会社ABCマート入社
1998年株式会社インターナショナル ダイニング コーポレーション起業
屋号「三ツ矢堂製麺」のつけ麺店を経営、現在に至る

 インタビューアー = 法政大学名誉教授 村串仁三郎

1Q こんにちわ。今日は、第5回目の卒サラ・起業家インタヴューに応じていただき有難うございます。
A こんにちわ。とんでもありません!わが母校に協力は惜しみません!

 

2Q お陰様で、この卒サラ・起業家インタヴュー・シリーズは、同窓会のホームページの中でも好評で、アクセス数も結構多く、編集部としても喜んでいます。
A そうなんですね。法大生やOBが起業に関心を寄せる事は良い事だと思います。起業して、軌道に乗ったあたりから、法大出身者はもっと起業という道を是非探るべきだ、と思っていましたから。

 

3Q そんな訳で、今日は張り切ってインタヴューすることにします。正直にいえば、中村さんは、私のゼミ生だった。数年前から連絡が取れなくなっていて、去年やっと久しぶりに会うことができたのでしたね。
A 実はそうなんですよね。中国の外食マーケットを一人で視察に行ってた時に、「法政」の旗を持った御一行に出くわしました。異国の地でのオレンジの校旗が懐かしくて、思わず話しかけたんですよ。流れで先生の話になり、「実は村串ゼミだったんです」って衝撃の告白をしたんですよ(笑)

 

4Q 中国を旅行していた法政大学の関係者や同窓会の人から、中国で村串先生のゼミ生に声を掛けられ、名刺をもらったので、お届けしますって、封書で名刺が送られてきた。名刺を見てびっくり。数年音信不通になっていた君の名刺であった。
A ご無沙汰してしまって申し訳ありません。

 

5Q 中村さんがサラリーマンを辞めてラーメン屋を経営したとこまでは私も知っていました。ラーメン業界は、競争も激しいし、生き残っていくのがなかなか難しいと思っていたので、音信不通になっているのは、倒産して、夜逃げでもしていたのかと、実は内心心配していたのです。
A 首を吊っていなくて良かったです(笑)。心配をおかけしました。確かに業界は甘くない!ただし、軌道に乗れば、面白い世界でもあります。

 

6Q では、本番のインタヴューを始めましょうか。生まれは?、
A 1971年、東京の池袋の近くの要町という所に生まれました。

 

7Q 家庭の事情は?
A 男3人兄弟の真ん中に生まれました。地元の美容室の息子で、野球少年でした。

 

8Q 高校はどこに行ったのですか?
A 埼玉の立教高校に行きました。

 

9Q 高校ではどんな暮らしをしていたのですか?
A 兄の影響で、中学からテニスを始め、テニスの強い高校でしたので朝から晩までテニスばかりやってました。勉強のことは聞かないで下さい(笑)。

 

高校生時代の中村さん

 

10Q で、大学受験は?正直に言って下さいよ。
A 付属高校でありながら、テニスばかりやっていて推薦漏れしてしまいました。

 

11Q 一浪?して法政大学に。
A はい、と言いたいところですが最近の法政は試験が難しくて…。2年間の浪人生活を経て入学しました。

 

12Q 法政大学人としては、二浪もして入学してくれるって、嬉しいですよ。法政大学経済学部に入学した動機は?
A 法政と言えば、「経済」と思っていましたので。でも、実は看板学部は「法」なんですね?

 

13Q いやいや、法政大学が作られた時は、法学部が看板だったけれど、1920(大正9)年に経済学部ができてから、特に戦後は経済学部が法政の中軸学部だったんですよ。他学部から経済帝国主義などと揶揄されて。法政大学時代は、どんな学生生活を送ったのですか。
A 体育会に所属していましたので、学生時代の大半は部活動に費やす時間が多かったです。

 

14Q テニス部での中村さんの実力はどんな具合でした?
A それを聞いちゃいますか(笑)?高校の地元の県では、そこそこだったんですが、法政大学に入ったら全く通用しなかったです。先生、これは私の実力がなかったというより、法政大学のテニス部のレベルが高かった、という事ですよ!

 

法政大学体育会テニス部の部員。前列右側一人目が中村さん
 

15Q 将来はテニスで身を立てるというような考えはありましたか?
A ハハハ、全くありませんでした。国内のプロプレーヤーの収入面での厳しさは学生であっても感じていましたら。

 

16Q 確かに法政のテニス部はずば抜けて強かったですからね。私はテニス部の部長をやっていたわけですが、中村さんの存在については特に気が付きませんでした。
A はい、恐らくそうだと思います。頑張ってはいたんですけどね。

 

17Q でもテニス部にいる学生は、多くが体育会の特別推薦入試制度で入ってくるので、中村さんがゼミに入ってきたときに、体育推薦ですか?って聞いたことを覚えているが、一般入試で入学してテニス部に入っていると聞いて感心したのを今でも覚えています。
A 体育会に自ら志願?して入部したのは、やはり高校時代に一生懸命、真剣にテニスに打ち込んだ感覚が忘れられなかったからです。

 

18Q 村串ゼミに入った動機は何だったのですか?

 

村串教授の還暦の祝賀会で挨拶する学ランの中村さん
 

A そんな事で、1年生から勉強を全くやっていなかったんです。スポーツ推薦ではなく一般入試からの学生としては漠然とした焦りがあったんだと思います。それで、ゼミくらいは一生懸命に取り組みたいな、と思ったのが動機です。
私のような体育会に所属していた学生にとって、それ以外の学生と接する機会が少なかった。その中で、一緒になって議論したり、酒を飲み交わしたりするのが新鮮で楽しかった。中でも、ゼミ旅行や、先生のお宅でのお泊りゼミは今でも忘れられない思い出です。

 

夏のゼミ合宿で勉強の合間にテニスを楽しむ。富士セミナーハウス。
2列目右二人目が中村さん。その前が村串先生

 

19Q 1995年に大学を卒業して株式会社ABCマートに就職するわけですが、どんな企業だったのですか?
A 当時は、小さなベンチャー企業だった。それでも、物凄い勢いで成長していて、その新卒一期生として入社しました。

 

20Q 就職するに際してどのような抱負というか、期待というか、あるいは野心というか、持ちましたか?
A 証券業界No.1の○村證券に内定を頂きましたが、何かそれでホッとしてしまった。その時に、「就職戦線では一定の結果は残した。今度は、会社の看板ではなく、自分の実力で人生を切り開いていきたい。」と思うようになって、当時ベンチャー企業であったABCマートに行く事を決めたのです。その頃から、起業を意識してきたのかも知れません。

 

21Q ああ思い出しました。中村さんが○村證券の内定を蹴って新興のABCマートに就職したと聞いて、ゼミ生が感心していたのを思い出します。私も、此奴は、ずいぶんと骨があるなあ、と感心していました。
中村さんが就職してすぐでしたか、ホーキンスの登山靴をワイフのと2足送ってくれましたね、嬉しかったですよ。今も山歩きの時には履くこともあります。
A ホーキンスを扱う部署に配属になりました。その時に、ご夫婦で山歩きをされる村串先生を思い出し、先生夫婦のイメージのカラーのトレッキングシューズを選んで送ったのを覚えてます。

 

サラリーマン時代の中村さん

 

22Q ところで実際のラリーマン生活は、どんなだったのですか。
A まずは、営業部に配属になり、全国の問屋に買ってもらう卸営業の仕事をしました。また、同時に小売店に問屋と一緒に出向き、売り場の確保などにも動きました。その後、希望を出し、海外生産管理の部門に移動しました。そこでは、海外の工場での生産スケジュール、船の積出しまでを管理していました。

 

23Q サラリーマン生活で、何か感じたことはありましたか、悩みのような。
A 古くからいる社員で出来の悪い先輩が結構いました。その先輩たち幅を利かせていた。このような人たちに影響を受けたくないなと思いながらも、同期の連中は結構影響を受けていて、数カ月すると一緒になって「こんな会社、やってられねーよな」などと言い始めていた。新人は良くも悪くもこうやって影響を受けていくのだな、と感じました。それと同時に、早くこの先輩たちとオサラバしたいな、と思っていました。

 

24Q サラリーマンを辞めて起業しようと決めた事情をお話下さい。
A はい、先程お話しした通り、「いつかは起業する」という意気込みと共にサラリーマンを始めたんですが、中々何をして良いか判らずに、2年ぐらい過ぎたあたりにウチのオヤジのサイドビジネスのラーメン屋を赤字の為、閉店しまして。「まず、このラーメン屋を立て直してお金を作る。その後、IT企業を興す」という何とも無計画な考えでスタートしました。

 

25Q それより思い出すのは、私がイギリスに留学している時に、突然中村さんから電話があったことです。イギリスの我が家の電話番号を教えた記憶がないのに何故?ってびっくりしました。
A 会社を退社し、自営をスタートさせるまでの2カ月間、ヨーロッパ放浪の旅に出ました。海外を長期間回っていると人恋しい。イギリスに留学中の村串先生の所に遊びに行く、と言ったが手掛かりが途切れてしまった。何としても連絡を取りたいと思い、イギリス在住の日本人の電話番号を片っ端から洗っていった。すると珍しい「MURAKUSHI」という名前が浮かび上がった。これは、と思い、夢中で電話をしたら若い女性が出た。事情を話すと、その女性が先生の娘さんだと分かった。

 

26Q そうでしたね。私は、そのことを聞いて、正直感心しました。面倒くさがりで行動力のない私にとって、中村さんの行動力、無から何かを見つけ出そうとする探究心と実行力に本当にびっくりしました。こいつはいつか大物になるかもしれない、と予感しました。
A そのようなコメントは20年たった今、初めて聞きました(笑)

 

27Q 3年間のサラリーマン生活を卒業して、事業を始めるわけですが、そのところの事情をこれから詳しくお聞きしたい。まず最初の立ち上げは、どういった具合だったのですか?

 

ラーメン店「頑徹」の経営の頃の中村さん・右

 

A 赤字続きだったオヤジの副業ラーメン店を運転資金(約100万位)のみで安く買取り、「ラーメン店主」をスタートさせました。コメも磨いだこともないし、ましてや包丁なんて握ったこともなかったので、まず汚れきった店を徹底的に掃除することから始めました。
何もできないのに、あれやれ、これやれと指示を出す僕のいう事を、誰一人聞いてくれなかった。今思えば、そりゃそうですよね。そのうち、スタッフが一人二人と辞めていく。怒りと、絶望と後悔の日々でしたね。
でも、後戻りできないので、下手に出て、一つ一つ覚えていきました。今に見てろよ、と思いながら(笑)。

 

28Q それで飛躍のポイントは?
A 起業して、泣かず飛ばずの売上の中、様々な実験、経験を経て7年間かけてジリジリと売上を上げていきました。先が見えないと嘆き、2号店で一か八かの賭けに出ました。当時では珍しかったつけ麺専門店を出店したのです。つけ麺ブームの代表格としてメディアに露出し、2号店は大ヒットしました。

 

29Q つけ麺ブームの代表格としてメディアに露出したということですが、どんなことがあったのですか。
A 平成18年には「第1回ラーメンShow」という、日本各地の有名な行列店を集めた大きなイベントがあったんです。そこに東京代表として呼ばれたのが大きかった。そうなんです「つけ麺」は久々に出た「東京のご当地グルメ」なんです。その後も、ラジオ番組や「行列のできるラーメン店」としてテレビで特集などを組んでもらった。メディアに引っ張りダコだったですねー。

 

三ツ矢堂製麺・高田馬場店

 

30Q 平成20年にフランチャイズ事業をスタートしてますが。
A はい、元々「ビジネス」をしたかったので、「1店舗のラーメン店主」に収まりたくはなかった。よりスピーディーに展開して行くにはフランチャイズ展開が良かったんです。つけめん専門店として3号店、4号店をオープンし、社内からの独立店、フランチャイズ加盟店も含め25店舗続々とオープンしました。

 

31Q 海外展開を始めたようですが。
A 海外1号店を2012年、フィリピンのマニラにオープンしました。2号店を2014年に韓国のソウルにオープンしました。現在、直営店5店、フランチャイズ店は23です。

 

合弁事業のフィリッピン・マニラ店

合弁事業の韓国・ソウル店

 

32Q これまでの事業を総括てきにまとめてみてください。
A 個人オーナーとして小さな店で独立。そこから、試行錯誤を重ねてブレーク。ただ、業界としてマーケットは大きかったですし、中にいる人材も、こう言ったら怒られちゃうかも知れないけど、東大や京大といった頭の良いヤツらがいっぱいいるわけじゃない。だからこそ急成長ができた、といっても過言じゃないですね

 

33Q これまで中村さんの事業について聞いてきたのですが、事業は成功したと思うのですが、成功の秘訣というか、根拠というか、何だったとお考えですか。まず経営面から。次いで、提供しているラーメンの質、美味さの面から。
A 経営面でいうと、まず狙ったマーケットが良かった。先程も申し上げた通り、マーケットが大きい割に賢い人材がはびこっているわけではない、ここを狙っていったのが勝因でしょうか。
商品面でいうと、やはり新しい「つけ麺」という分野でヒットできた事です。中でも、ちょっと年齢的に上の40代以上のターゲットをねらった「本格的だけれども、あっさりした味」にしたのが良かったと思います。

 

34Q 素人のたわごとですが、ラーメン店のように分散した店をフランチャイズ店とは言え各地に大量に出店して、円滑に経営・管理していくことは相当難しいと思うのですが、そうした困難をどのように処理、克服しているのですか?
A まだ克服していません(笑)。ただ、やってきたことはステージステージで、ステージにあった外部の助けを借りてやってきたこと。あとは、それを素直に受け入れ、自分でも勉強してきましたかね。

 

社員総会の社員一同
 

35Q 老婆心ですが、これだけ店を広げていって、そのリスクはないのですか?
A リスクは常にあります。想定されるリスクもありますが、想定外のリスクにもたくさんつまずいてきました。まずは、「食品衛生的」リスク。大手の会社でも「狂牛病」や「鳥インフルエンザ」といったものでつまずいてきました。他にも飲食業界にまつわる「労働環境」によるリスク。改善をしてゆかない事で大きな損害や「ブラック企業」などの風評を受けることも多々あります。
ただ、そのリスクをヘッジしながら、つまずいたら立て直しながら運営していくのが手腕でしょうから、めげないように体育会精神で頑張ってやってきました。

 

36Q 実は、中村さんとインタヴューを行なうことが決まって、私の住んでいる千葉県流山市のツクバ・エクスプレス線の「流山おおたかの森」という駅の近くのビルに「三ツ矢堂製麺流山店」があったので、こっそり行ってみました。その時の印象を正直に話しましょうか。
午後3時頃だったので、一般にあまり客が集まる時間ですが、その店は、若者のカッルが二組、それに60歳代の御夫婦がいたのには驚きました。客層の幅がひろいとすぐに気が付きましたよ。店構えも、如何にもラーメン屋というのではなく、明るい洋風の室内もこぎれいでいい印象でした。
スタッフはみんな若い人たち人たちでしたが、接客態度は、丁寧で感じがよかったです。それに、注文を受けるのに、麺の湯出具合とか味に幾つかの種類があって、お客のチョイスの幅があってよかったですね。それに、麺が普通の鹹水のきいた中華麺ではなく、私には初めての感触でしたが、ややイタリアのパスタを柔らかにしたような、それでいて弾力感のあるなかなかうまい麺でした。塩分も抑え気味でしたね。麺の質にこだわっていることがわかりました。
A おほめにあずかって有難う御座います。それなりに努力しているつもりです。

 

37Q 長い間、時間をいただきまして、面白く興味深い話をお聞かせいただき有難うございました。最後の質問ですが、経済学部同窓会に入っておられますか。
A 入っていたように思いますが。でも住所を転々としたので、幽霊会員になってしまったかもしれませんね。

 

38Q 実はそうした例が多いのです。同窓会に入会してから、転勤すると住所変更をしない人がほとんどですね。そうすると、同窓会の新聞などが送れなくなって、自然退会ということになってしみます。村串ゼミのOB、OGも当初相当数が同窓会に入会していましたが、今は自然退会になっている人が多いです。同窓会員の減少が問題になっているので、村串ゼミのOB、OGが自然退会しているかいないか、今点検中です。
A 早速再入会の手続きをします。・・・

 

(結び) ぜひそうしていただきたい。法政大学のために支援をし、また卒業生相互の交流を深めるために貢献していただきたい。そして中村さんの「三ツ矢堂製麺」の一層の発展を祈願してインタヴューを閉じたいと思います。

(なお「三ツ矢堂製麺」の詳細について、ウエッブのホームページをご覧ください。)
「三ツ矢堂製麺」ホームページ:
 http://idc-inc.jp/

 

対談を終わって握手を交わす村串名誉教授と中村さん