1 森嘉兵衛先生との出会い
永い間、法政大学経済学部同窓会のユニークな活動として評価されてきた森嘉兵衛賞を、2021年度をもって終了することになった。森嘉兵衛賞終了の理由は、すでにこのHPで報告したように、同窓会の衰退にともなう財政難と森嘉兵衛賞を維持していく体制が私の老衰化によって失われてきたことであった。
私が同窓会設立に際して森嘉兵衛賞の設置を提案した事情は次項で述べるが、なぜ森嘉兵衛賞だったかの理由は、私の大学院生時代に森嘉兵衛先生に一度お会いしていたことに起因している。
1960年代中頃であったか、私が院生だった頃、法政大学の校友会でスキャンダルが生じ、校友会の民主化運動が起きた際に、たまたま森先生と同期で親友だったという銀座で紳士服テイラーを営んでいた先輩と知り合った。
その先輩があるとき、当時岩手大学の学芸経済部部長を務めておられた森先生が上京することになっているから会わないかと誘われた。経済学部の大先輩に会えると喜んで、実は大学での職を紹介してもらえたらとの下心があって、銀座のコーピーショップで先輩と共に森先生にお会いし、先生の学生時代のことをお聞きしたことがあった。
森先生は、昭和初年代の若い社会科学系学者の多くがマルクス系だったにもかかわらず、そうではなかったようで、それでも新人会という東大を中心としていた左翼学生の集まりには法政から参加していたという話であった。
なぜ法政大学に残らなかったのですか、との問いに、盛岡の家業を継がなければならなかったことと体が弱かったことをあげておられた。
たかだか大学院生の私の問いに、誠実に応えられていた森先生の人柄に私は大変感動してお別れしたことを思い出す。
2 経済学部同窓会の設立と森嘉兵衛賞の設立事情
話は飛んで、私は、永いオーバードクター生活を続けたが幸い経済学部の教員の職をえた。川崎の校地の売買を巡り1989年にこれまた校友会の役員でOBの大学理事によるスキャンダルが発覚し、利権がらみの校友会と関係なく純粋に卒業生の親睦と大学支援の同窓会を学部別に組織しようとする動きが起こり、社会学部が1989年に学部同窓会を立ち上げた。
しばらくして経済学部の卒業生からも経済学部同窓会設立の動きが起こり、1992年に法政大学経済学出身の職員と経済学部の数少ないOB教員と、校友会に不満を抱いていた多くの経済学部卒業生が協力して経済学部同窓会を設立した。
同窓会設立に際して同窓会の活動として何かいいアイデアないかと考えた末、私は、一度お会いしたことがあり、法政大学経済学部卒業の研究者として法政大学出版局から著作集を発行し傑出した研究業をあげておられた嘉兵衛先生の学問を顕彰し、法政大学経済学部の卒業生や経済学部に関係のある若手の研究を表彰する、森嘉兵衛賞の設置であった。
同窓会では私の森嘉兵衛賞の設置提案に反対した人もいたが、私費でもいいから設置をと訴える私の熱意に多くの人が賛成してくれた。
森嘉兵衛先生の主な研究は、地元の岩手の郷土史であったから、A賞の経済一般の研究のほか、法政とは関係なく地方の地域史研究に与えるB賞を設置した。
そこで、当初地方の郷土研究者から多く応募があり、受賞されると地方紙が大々的に受賞を報じてくれて、同窓会の名を高めてくれた。
3 森嘉兵衛賞の終焉
同窓会は、一時会員が4000名近くに増加したが、10年たち20年たって、他方だめだった校友会が新たに再建され大学の後援も受けて従来になく発展してきたために、設立時の勢いを失い、学部同窓会の存在意義が薄れはじめ、近年には毎年100名近い会員が老齢化や死亡のために会からいなくなり、新会員が十数人にすぎず、現在数百名ほどに減少してしまった。
先の投稿で書いたように、当初20万円だった森嘉兵衛賞の償金は、2014年に10万円に引き下げたが、それでも同窓会の財政にとっては負担となっていた。
何より森嘉兵衛賞の運営を一人で担ってきた私が、高齢のためこれ以上担えなくなり、さりとて同窓会に私の代役をしてくれる人がいないため、ついに森嘉兵衛賞を終焉させざるをえなくなったのである。
私は、森嘉兵衛賞の終焉を同窓会に提案し了承していただいた。
4 森嘉兵衛先生のご子息からの手紙
私は、森嘉兵衛賞設立の際、岩手県盛岡市内の森嘉兵衛先生のご長男肇氏と肇氏の夫人で嘉兵衛先生の教え子であったノブ夫人にお会いして、森嘉兵衛賞設置の了解をえた。そのこともあって、森嘉兵衛賞の終焉についてご夫妻に報告の手紙を書いた。
その手紙への森肇氏のご返事を頂いたが、その中に同窓会への一文が入っていたので、ここで紹介しておきたい。
「実施三〇年にわたる森嘉兵衛賞についてのお礼」
故森嘉兵衛 遺族(長男 森肇)
このたび法政大学経済学部同窓会 創立三〇周年記念に当たり当初より継続されて参りました森嘉兵衛賞事業について、心から御礼申し上げます。
賞のタイトルとなった森嘉兵衛の研究者としての基礎は、第一に、法政大学経済学部に学んだことにあることは、入学直後から先生方のご指導によることは明白であり(別紙参照)、それに注目された同窓会の方々のお陰で、森嘉兵衛が設置されましたことに感謝申しあげます。
同窓会の学術研究推進に対する高邁なお考えは、まさに大学に望まれるものであり、それを同窓会において実践されました事は、只々、敬服いたしている次第でございます。
実施三〇年にわたる森嘉兵衛賞事業は当初の目標を充分に発揮され終了することについて、心から御礼申し上げます。
同窓会様には、今後とも益々ご発展を続けられ会員の充実に寄与されますことをご期待申し上げます。
令和四年十二月三日
同窓会様
「別紙」とは『岩手の古文書』第26号、平成24年3月31日掲載に掲載された森肇「森嘉兵衛と恩師小野武夫との出会い」の以下の一文であった。
村串記
「森嘉兵衛と恩師小野武夫との出会い」
森肇
先日、古い手紙を整理していたところ、下記の封書が出て来た。
嘉兵衛が大学の夏休みの課題に提出した論文についついて、担当の小野武夫教授からの呼出状である。封書の宛名は大学宛てになっている。嘉兵衛は大学の事務から呼出しを受け、この手紙を受け取ったものと考えられる。
このとき、嘉兵衛は法政大学経済学部の2年生であった。
これ以降、森嘉兵衛は小野武夫の指導を受けることになり、研究者の道を歩むようになった。
そのきっかけになった手紙であるといえよう。この小野武夫教授との出会いについては、後年、嘉兵衛本人が話していたし、また対談等でも話しているが(「みちのく文化論」法政大学出版局 昭和49年刊)、この手紙の存在については聞いたことはなく、今回始めて目にしたものである。
提出論文の『遠野唐丹寝物語』について自筆の控えが残っている。
小野武夫教授の手紙
「拝啓
先日御提出に相成候遠野唐丹寝物語りを一読仕候處、頗る有益に御座候故ニ付き少々御相談申上度事と存申候間 来る十三日午後一時頃一寸大学の職員室に御出可被下度 小生同室にて御待申上候間右宜敷願上候
草々」
小野武夫
森嘉兵衛様
5 森嘉兵衛著作集と経済学部同窓会の遺産としての森嘉兵衛賞について
森嘉兵衛先生の研究業績は、法政大学出版局から以下のように全10巻として出版されている。
第1巻 奥羽社会経済史の研究:平泉文化論、1982年刊。
第2巻 無尽金融史論、1994年刊。
第3巻 陸奥鉄産業の研究、1994年刊。
第4巻 奥羽農業経営論、1983年刊。
第5巻 奥羽名子制度の研究、1984年刊。
第6巻 近世農業労働構成論、1998年刊。
第7巻 南部藩百姓一揆の研究、1974年刊。
第8巻・第9巻 日本僻地の史的研究:九戸地方史、1982年刊。
第10巻 岩手近代史の諸問題、2003年刊。
森嘉兵衛先生の研究は、一貫して中世・近世・近代の東北地方の研究であったが、私には森先生の業績を批評する資格はないので、森嘉兵衛著作集の出版に助力された経済学教授だった故山本弘教授の「経済学部が生んだ碩学・森嘉兵衛教授」(本HP「森嘉兵衛先生の紹介」のコーナーに掲載)を参照されたい。
またHPでは、「森嘉兵衛賞の概要」として森賞の設立趣意書、応募要領、森嘉兵衛先生の略歴、受賞著作の一覧が掲載されている。
また法政大学多摩図書館2階の閲覧室の一角に受賞著作が配列されている。興味のある方は、ぜひ一読されたい。
森嘉兵衛賞は、廃止されてなお、経済学部同窓会の遺産として永久に残るであろう。
2022年11月好日、経済学部同窓会創立30周年記念集会の成功を祈りつつ。
村串仁三郎(法政大学経済学部同窓会副会長、法政大学名誉教授)
補遺 筆者の報告への森肇氏からのご返事
謹啓 残暑厳しきところ、先生におかれましては、お変わりなくお過ごしのことと、お喜び申し上げます。
このたびは、態々お手紙をいただき、法政経済学部同窓会の森嘉兵衛賞の存続について日夜苦慮されおられたことを拝察いたし、誠に恐縮に感じております。
森嘉兵衛の研究者としての業績は、第Ⅰに法政大学経済学部に学んだことが基礎にあることは明白であり、それに注目された先生のお陰で、森嘉兵衛賞が設立されましたことに感謝申し上げます。
実は、先日送付された「会報」を拝見し、廃止の内容を知りました。その中核は当初より、金銭上のことでありながら全くお手伝いもできずに過ごして参りましたこと慚愧に堪えません。
お手紙の趣旨「停止」に異議ないことをお伝え申し上げ、これまでの御交誼に感謝の限を申し上げ次第でございます。
先生には、今後とも益々のご研究を続けられ大学教育の充実に寄与されますことをご期待申し上げます。
時節柄 何かとご自愛のほど祈念いたしております。
敬具
令和4年9月10日
森 肇
村串仁三郎先生
追伸
末筆になりましたが、先生に夫婦でお世話になり、賞創設の際の同窓会合に参加させて頂きました。
妻ノブは、三年前(令和元年五月一日)に亡くなりました。
諸研究者に賞に応募を推奨いたしながら、自らも将来挑戦することを楽しみにしておりましたが、残念に思っております。