2020年6月25日
椎名鉄雄

宇沢弘文言語録メモ(経済学とは何かに悩む)

宇沢弘文(1928年生まれで1997年文化勲章受賞)は、高校時代から数学が得意であった。東大に入って数学の勉強をしたが、一時これを離れてマルクス経済学にのめりこんだ。しかし、抽象的な理論に満足できなかった。宇沢は、友人との繋がりを基にアメリカの近代経済学者ケネス・アローと知り合い、1956年にアメリカにわたり彼の研究助手となった。アメリカで才能を磨き、数理経済学の分野で、資本主義の不安定さを数理経済学で証明する優れた研究を行い、ノーべル賞に最も近い人物とされていた。しかし当時の経済学の主流派・新古典派の考え方になじめず、いくつかの屈折を経て日本に帰国した。日本では、生々しい公害問題等に接し、現状の経済学に対する一種の罪悪感を感じ、自然破壊と人間の尊厳を無視した既存の経済学の再構築を自分の使命とした。再構築の新しい中心概念は社会的共通資本であった。この新しい理論構築により、人々の意識変革と具体的な制度変革を行い、民主的プロセスの中で自然を尊重し、人間の尊厳を守る持続的社会の構築を目指した。ここでは、宇沢の考え方を理解するための一つのステップとして、宇沢の気迫に満ちた人間味のある言葉の中で特に印象に残ったものを言語録メモという形で私なりに纏めてみた。

1、竹中平蔵(註1)に対する宇沢の言葉

竹中平蔵は、新自由主義者(註1)として経済の規制緩和、民営化、経済のグローバル化を小泉内閣の閣僚として強力に進めてきた。現在は、自ら人材派遣会社を経営している。宇沢は、自己の利益を最大化する新自由主義の思想を厳しく批判している中で、竹中平蔵について次のように述べている。「彼はね、本質的には経済学者ではないんだよ」。
(註1)デヴィッと・ハーヴェイの定義によると、新自由主義とは強力な私的所有権、自由市場、自由貿易、を特徴とする制度的枠組の範囲内で、個々人の企業活動の自由とその能力とが無制限に発揮されることによって人類の富と福利が最も増大する、と主張する政治経済理論である。それは、市場取引の範囲と頻度を最大化することで社会財は最大化されるという考え方であり、人々の全ての行動を市場の領域に導こうとするものである。
2、社会的共通資本の概念の導入
宇沢は、1968年アメリカから突然日本に帰国した。冷戦下の思想の相克を背景に経済学の『奥の院』では激しい抗争(フリードマンの代表される新自由主義者たちは、ケネデイ大統領のブレーンとして活躍したアメリカンケインジアン達の理論を共産主義に通じる理論と捉え、激しい攻撃をあびせていた)宇沢は、ポスト冷戦時代の資本主義を見据え、社会的共通資本という新たな概念を携えて理論闘争の最前線に戻ってきた。
<宇沢の言葉>
宇沢は、「社会的共通資本(註2)は、一つの国ないし特定の地域に住む全ての人々が、豊かな経済生活を営み、優れた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような社会的装置を意味する」と述べている。
〈註2〉社会的共通資本とは、土地、大気、水、森林、河川、海洋等を自然的環境(自然資本)と捉えこれを社会的共通資本とする。更に、道路、上下水道、公共的交通機関、電力・通信施設、司法・教育・医療制度、金融財政制度等の社会的環境を社会的共通資本と捉え、自然資本と合わせ経済学の分析対象とする。資本主義経済は社会的共通資本を土台として成り立っている。経済社会の持続性を維持する為、この土台の勝手な侵蝕、浪費(公害はその典型)は許されない。尚、社会的共通資本の在り方については、独立機関を設けそれぞれの分野の専門家の検討に委ねる。

3、フリードマンの市場原理主義について

1976年当時の世界の経済状況は、インフレの中で、高失業率が存在していた。いわゆるスタグフレーションという現象である。この状況はケインズの一般理論では説明が困難であった。そこをフリードマンが、マネタリズムの理論(政府は市場への介入を一切やめて、一定の貨幣供給のみを管理していればよい)、市場原理主義の理論でついた。これが反ケインズ革命の端緒となった。宇沢は友人への私信の中で、フリードマンについて次のように述べている。「1973年9月11日私はシカゴにいました。かつての同僚たちの集まりに出ていた時、たまたまチリのアジェンデ大統領が殺されたという知らせが入った。(市場原理主義が最初に輸出されたのがチリ。アメリカは、市場原理主義経済を実現する為、ピノチェのクーデターを資金的にも軍事的にも支援していた)その席にいた何人かのフリードマンの仲間が、歓声をあげて喜び合った。私はその時の彼らの悪魔のような顔を忘れることは出来ない。それは市場原理主義が世界に輸出され、現在の世界的危機を生み出すことになった決定的な瞬間だった。私自身にとってシカゴ(宇沢は、フリードマンと同じ大学に在籍していた)と決定的な決別の瞬間だった」。宇沢の学問のテーマは市場原理主義的均衡理論の研究ではなく、後進国問題・不平等問題を含めた経済理論の構築であった。フリードマンの考え方とは一線を画していた。

4、公害問題について

宇沢は日本に帰国してから、寡黙となった。そして都留重人の公害研究委員会との出合いを通じ、宇沢の学問に対する姿勢が変化していった。とくに水俣の問題には熱心で、熊本大学医学部の原田正純、東大助手の宇井純を尊敬していた。原田の往診に同行した時の体験を概要次のように語っている。『私が直接水俣病の患者に接し、その苦しみを知り、その悩みを分かち合うことが出来たのは、ひとえに原田さんのおかげです。原田さんに連れられて水俣病患者のお宅を訪れる度に、私はいつも感動的な場面に出会いました。それは重篤な患者の方々が原田さんを見ると実にうれしそうな表情をして、はいずりながら原田さんに近づこうとする姿でした。原田さんが優しい言葉でいたわり容態を聞く光景を見て、私は、原田さんこそ現代医学の規範でなければならないと強く感じたものです。同時に医学の道を志しながら途中で挫折した後、社会の病を癒すという気持ちに駆られて経済学を専門分野として選んだ私は、それまで研究してきた経済学のあり方に対して、つよい疑問を持ち、深刻な反省を迫られざるをえませんでした』宇沢は、公害を資本主義的市場経済の高度成長のひずみと捉え、公害や環境汚染によって生み出される損失を被害者に転化することは許されないと考えた。この考え方は、宇沢経済学に大きな変化をもたらした。公害や環境汚染を経済学で十分に分析できなかったのは、経済学というが学問体系が自分自身の問題意識に根ざしたものになっていなかったこと、どこかからあたえられたものであったからではないかと自問した。

5、経済学の役割について

宇沢は、以前から弱者の問題にどう向き合うかを考えていた。帰国してから、信頼を置く学者や言論人に赤裸々に学問上の課題や悩みを語ることもあった。生物学者の渡辺格に率直に語っている。「僕は近代経済学というよりむしろ最近は新古典派批判の観点にたっているのですが、それは渡辺さんがおっしゃるようないわゆる『弱者』の問題にかかわっているわけです。近代経済学は、市場経済制を唯一の経済制度として考えて、そこでのメリットを探し出すという役割しか果たしていないし、一方マルクス経済学ではそれを社会主義社会への移行の歴史的プロセスとしてしか捉えていない。しかもその移行の過程は「疑う余地がない」という強固に論理的な一つの鉄則に基づいている。公理的で理論的な立場から出発するのですね」。
「しかし、今一番問題なのは、おっしゃるような弱者の問題であり、もっと広くいえば人々が社会的な観点にたって行動し、判断することの意味を経済学的にどう翻訳してどういう特徴を持った経済制度を模索するかという点にあると思うのです」。宇沢は、新自由主義的市場経済の下で苦しむ弱者救済の新しい経済制度を、市場経済システムの中でどう構築するかを生涯のテーマとした。

6、昭和天皇のお言葉

宇沢は、55歳で文化功労賞に選ばれ、恒例のお茶会に招かれ時、昭和天皇と対話した。宇沢はそのときの様子を概要次のように話している。「私はすっかり上がってしまって、夢中で新古典派経済学がどうのとか、ケインズの考え方がおかしいとか、社会的共通資本がどうのとか一生懸命になってしゃべった。支離滅裂だということは気付いていた。その時、昭和天皇は私の言葉をさえぎって次のように言われたのである。{君、君は経済、経済というけれど、つまり人間の心が大事だとそう言いたいのだね}。昭和天皇のこのお言葉は、青天の霹靂きであった。私はそれまで、経済学の考え方になんとかして、人間の心を持ち込むことに苦労していた。理論の中に心を持ち込むことはタブーとされていた。私は、この点については多少欺瞞的なかたちで曖昧にしていた。私が一番心を悩ませていた問題に対する昭和天皇のお言葉は、私にとってコペルニクス的転回とも言うべき大きな転機を意味していた」。宇沢はこれ以来、持続的経済社会構築のための社会的共通資本の概念に自信を深め、研究活動に力を注いだ。

7、ローマ法王への提言

1991年ローマ法王ヨハネ・パオロ2世から、歴史的な回勅(ローマ・カトリック教会が社会問題に対して明確なメッセージを発する)を出すにあたって宇沢に協力を求めてきた。法王は、宇沢に「資本主義は大丈夫なのでしょうか」と問いかけてきた。宇沢は、回勅のテーマについて1891年レオ13世によって出された回勅テーマ「資本主義の弊害と社会主義の幻想」を修正し「社会主義の弊害と資本主義の幻想」にすべきではないかと提案した。宇沢は、冷戦は社会主義の敗北で幕を閉じたが、資本主義に問題がないわけではないと考えていた。その頃、西側諸国で勢いを増していた市場原理主義を中心とした運動が、やがてはある意味で社会主義の弊害に匹敵するような大きなダメージを人々に与えるに違いないという危惧を抱いていた。資本主義が解決できないでいる問題の具体例として地球温暖化問題を挙げ、宇沢が唱えている社会的共通資本の考え方を丁寧に紹介した。宇沢は、「もう一つ付け加えるなら、平和こそが大事な社会的共通資本です」と述べた。そして、新しい回勅は宇沢の考え方を取り入れ世界に発せられた。そしてパウロ2世は、後に宇沢に回勅の趣旨を自分の代理人として全世界に広めてほしいという趣旨の手紙をだしている。宇沢は法王との会食の中で「いま、人々の魂は荒廃し、心は苦悩に侵されている。この世界の危機的状況のもとで、あなたは倫理を専門とする職業的専門家として、もっと積極的に発言しなければならない」と述べた。これに対し、ヨハネ・パウロ2世はにこにこしながら「この部屋で、私に説教したのはお前が最初だ」と言われた。

8、地球温暖化問題の解決策の提案

宇沢は、1990年10月地球温暖化に関するローマ会議の基調報告として、比例的炭素税に関する論文を発表した。あわせて大気安定化国債基金の構想を提案した。宇沢は、この論文で地球温暖化問題の解決策を提示することは、経済学者の責務であると考えていた。宇沢は、シャドウプライス(陰の価格・帰属価格)としいう手法で、二酸化炭素の蓄積によって受ける被害額(帰属価格)を計算した。帰属価格は、二酸化炭素の蓄積が一トン増えたときに、その国の経済厚生が、現在から将来にかけてどれだけ減少するかを算定するものであった。二酸化炭素蓄積量が長期的に最適水準に近づく公式、「宇沢フォーミュラ」を作った。宇沢は、この公式に基づき国と国との公平性を確保しながら、排出された二酸化炭素の量に応じて炭素税を課税し、これを財源に、後進国に森林の育成等の補助金を交付する国際的な枠組みを発案した。もう一つの制度は比例的炭素税の一部を基にした大気安定化国際基金である。この基金から発展途上国に資金が配分され、森林の保護育成に活用し、二酸化炭素抑制につなげるというものである。これが宇沢のポスト冷戦時代の新たな経済制度(炭素税は企業活動に一定のブレーキ効果をもたらす)を探る試みであった。
しかし、この構想は、本来的に規制を嫌うアメリカの新自由主義経済学者たちの反対で実現しなかった。ここに経済学に対する思想の差がはっきりと表れた。1997年の国連の気候変動枠組み条約の第三回国際会議(京都会議)で二酸化炭素削減目標(京都議定書)が定められた。宇沢はこの会議について次のように語っている。即ち「この会議でアメリカは、炭素税の代わりに排出権を提案した。排出権は、割り当てを超えて排出量をカットした時、それを排出権と称して、マーケットで儲けようという人間として最低の生き様です。排出権取引では、全体の排出量は減りません。逆に増加する傾向すらみられる」と激しく非難した。アメリカは、各国の二酸化炭素削減目標を定めた京都議定書は、自国の利益にならないと議会で承認しなかった。こうした中で、地球温暖化は進行し、様々な悪影響を与えつつある。特に気候変動による農業への影響、食料不足が最大の問題となるのは避けられない状況となっている。又、地球の平均気温上昇により、自然の摂理ともいえる生物の相互依存関係、生態系(人類もその中で生かされている)の破壊が進んでいる。宇沢は、新自由主義的市場経済は、人類に大きな禍根を残すと考え、新たに社会的共通資本の概念を導入し、ポスト資本主義経済の構築を可能とする経済学の完成を目指した。

9、三里塚農社構想

宇沢は、不思議な縁で成田空港問題に係わることになった。1970年代から1980年代にかけて、激しい抗争が続いている成田空港問題の解決に向けて、政府と農民との対話の仕組みづくりが進み、「地域振興連絡協議会」が設けられた。宇沢は、農民側の代表に請われて学識経験者として委員に就任した。宇沢はここで、当時のあらゆる思想のるつぼの中に入り込んだ。そこで様々な立場の人々と議論した。国策で満州に送られ、国から見捨てられたも同然の状態で満州から引き上げてきて、三里塚に入植し苦労して開墾し、肥沃な農地を育ててきた農民の思いに心打たれた。宇沢は、国家と農民の間に立って、国家の役割、地域の役割、農業の意味、農業の社会的な役割について考えた。協議会の対話の中で、国側も反省し強制収容法適用は撤回した。宇沢は、成田空港問題を通じて、農業の本質的問題を考えた。空港用地取得問題を、国と農民との間の単なる土地の売り買いの問題と捉える国の姿勢に反発した。農の営み即ち農業は、人間が生存する為に不可欠のものである。農地は単なる地面ではなく、農の営み、人間の生存を支える基盤である。宇沢は、農の営みを、社会的共通資本として考えるようになった。そして、市場経済の中で永続性のある「農の営み」は,いかなる形にしたら良いかを考えた。宇沢は、日本の地理的・自然的条件の中で、世界の農業に対抗できる個人経営を基本とした大規模経営実現は不可能であると考えた。この考え方は、農業基本法を作った東畑精一自身の反省を込めた言葉でもあった。農村人口の減少の中で日本農業は、最大の危機を迎えている。宇沢は、その危機をもたらした要因の一つは、1961年に制定された農業基本法であり、市場的な効率性、つまり工業部門と同じような考え方を農業にあてはめた政策の失敗であると考えた。宇沢は、市場競争に耐え経営として成り立つ農の営みのシステムを、農民と共に考えた。宇沢は、農の営みを、個人単位ではなく集団としてのものでなければならないと提案した。具体的には、集団のとしてのシステムを、農地を共有の形(コモンズ・共同管理地)にして、生産・販売・加工・技術、経営研究等を一体化して行なう形を考えた。これを「三里塚農社」と名づけた。この実現のためには、農地法の改正等法制度の整備が必要であった。宇沢は、あらゆる人脈を使い予算措置を含めて実現の直前にまでこぎつけた。しかし、最終的には、設立の場所をめぐって農民と意見が合わず実現できなかった。農民側は、最後まで、B・C滑走路予定地内設置にこだわった。
宇沢は、他県での設置に望みを託したが実現できなかった。三里塚農社構想は、日本農業の未来を切り開く具体的な道であった。宇沢は三里塚農社を自らの社会的共通資本の実践モデルと位置づけていたので、この結末は残念であった。

10、リーマンショックについて

2008年にアメリカのリーマンブラザーズという証券会社が、総負債6130億ドルというアメリカ史上最大規模で倒産し、世界的金融恐慌の引き金となった。この金融恐慌は、市場経済に蓄積されてきたバブルの崩壊であった。この金融恐慌は意外な副産物をもたらした。経済学者と金融業界との癒着の一端が、白日のもとに晒されることになった。この金融恐慌の引き金となったのは、銀行・証券業界の分離等に関する金融業界の規制緩和であった。この規制緩和を指揮したローレンス・サマーズであった。サマーズは、経済学者であり、政治家でもあった。サマーズは、ヘッジファンドから2000万ドル顧問料を受け取っていた。又、企業から法外な講演料を受け取っていた。宇沢の教え子の経済学者のジョセフ・ステグリッツは、金融界と経済学者の癒着を痛烈に批判し次のように述べている。「金融恐慌の危機は、アメリカ型資本主義への幻滅を生んだ。そしてミルトン・フリードマンらの市場原理主義の経済学の破綻であった」。
宇沢は、金融恐慌の直接的な引き金となったサブプライムローンについて怒りを押し殺すように「金融工学というのは、基本的には全てを確率的な現象として捉えます。社会的、歴史的現象である経済の動きを、あたかもサイコロを振るモデルとして処理してきました。サブプライムローンという商品(土地を担保にした低所得者向けローンで、最終的な返済財源は土地の値上がりによる担保価値)を他の債券と組み合わせた金融商品は、非常に難解な、しかしまったく根拠のない数学を使用して作っていたのです。これが金融工学の本質です。実際にやっていた人はそのことをわかっていました。近代経済学では、人間を損得を計算する機械と看做します。そこには、一人ひとりの心はありません。経済学の原点は、人間の心を大事にすること、一人ひとりの生き様をどのように考えていくかなのです。そのために必要なのが社会的共通です」「戦後60年、バックスアメリカーナ(アメリカの力によるアメリカのための平和)で日本の心も自然も社会も目茶苦茶になりました。私は今、なんとも言えない憤りを感じています。今までのんのんと生きてきたそのことを反省しなくてはいけないと思います。新しい流れを何とか見つけていきたい思いです。それしか道はないのです」。

11、日米構造協議について

1980年代後半に日米構造協議が始まった。当時は、アメリカの対日赤字が蓄積する一方ヴェトナム戦争後のアメリカの財政赤字は天文学的数字に達していた。アメリカはその原因は、日本の輸出依存の社会構造にあると強調して、日本政府に10年間に430兆円の公共投資をせよと迫った。1990年6月に決着した日米構造協議について、宇沢は概要次のように総括している。「日米構造協議の核心は、日本にGNPの10%を公共投資に当てろという要求でした。しかもその公共投資は決しての本経済の生産性を上げるために使ってはいけない、全く無駄なことに使えという信じられない要求でした。最終的には630兆円の公共投資を経済性生産性を高めないように行なうことを政府として公的に約束したのです。ところが国は、財政節度を守るという理由の基に地方自治体に押し付けたのです。地方自治体は独自でレジャーランド建設や、使い道のないような工場用地造成のような形で生産性をあげない全く無駄なことに630兆円を使う。そのために地方債を発行し、その利息は地方交付税交付金でカバーする。ところが小泉政権になって地方交付税を大幅に削減してしまったため、地方自治体で作った第三セクターの事業の多くは破産し、不良債権化した。それが自治体の負債として残ってしまった。その結果地方自治体の多くが、厳しい財政状況(道路,橋梁、河川等の補修もままならない)にあって苦しんでいます。これが、日本が現在置かれている苦悩に満ちた状況を作りだした最大の原因です」。
宇沢は、日米の力関係の力学で決まった巨額投資計画を批判し、それに代わる理念として社会的共通資本の理論を説いた。即ち、社会的共通資本は、大気,水、森林等自然資本だけでなく、道路、上下水道、公共的交通機関、電力、通信施設等のインフラ、更には、教育、医療等文化制度、更に金融・財政制度を含んでいる。資本主義的市場経済制度は、このような社会的共通資本のネットワーク中で機能している。
宇沢は、共通的社会資本から生み出されるサービスは、市民の基本的権利を充足するに際し、なくてはならないものであり、社会的共通資本の形成・維持・管理は、国家の基本的な責務であると考えた。そこには宇沢の経済学に対する「経世済民」(世を治め、民の苦しみを救うこと)の哲学が潜んでいる。しかしながら宇沢は、社会的共通資本の概念に基づくポスト資本主義の経済学を、未完成のまま86歳の生涯を閉じてしまった。                               以上

<参考文献>
「資本主義と闘った男~宇沢弘文と経済学の世界~」(佐々木実著・講談社)
「社会的共通資本」(宇沢弘文著・岩波新書)
「人間の経済」(宇沢弘文著・新潮新書)