2019-02-04

「法政大学前総長増田寿男先生を偲ぶ会」開かれる

 昨年9月15日に逝去された元経済学部教授で法政大学総長だった増田寿男名誉教授を「偲ぶ会」が、大学主催で、1月23日、市ヶ谷キャンパスのさったホールで、午後4時から5時半、200名近く参集して開かれました。
増田寿男先生は、経済学部同窓会の設立に積極的に関わり、同窓会の役員から慕われ、同窓会にとって掛け替えのない存在でした。増田先生の略歴については、HPの別の記事に掲載されているので、詳細は省略します。
増田先生は、1941年東京生まれ、1964年慶応大学経済学部卒業、1970年に同大学院博士課程を修め、同年に法政大学経済学部に専任教員に就任し、爾来、経済学部長、比較経済研究所所長、総長など歴任してきた重鎮でした。
「偲ぶ会」では、田中総長の挨拶に続いて、総長と6年間理事として働いた徳安彰社会学部教授の弔辞のあと、経済学部で増田先生の同僚であった村串仁三郎名誉教授の弔辞が述べられました。以下の増田先生を偲ぶ貴重な「弔辞」なので、以下に掲載します(HP編集部)

しのぶ会

挨拶する村串名誉教授

弔辞 増田君を偲ぶ
増田寿男先生の逝去にたいし、ご遺族に心から哀悼の意をささげます。
増田先生は、私が経済学部に教員として採用された1969年4月の翌年に採用され、私とは、爾来ほぼ同期生として、ムラクシ、マスダと呼びすてにし合う仲で親しくし40年近く、経済学部教員として、公私の活動を共にしてきた。
私より6歳も若い君が、昨年9月15日に77歳でこの世を去っていったことは、予期していない訳ではなかったが、とても残念で悲しい。
ここでは、この悲しさを噛みしめながら、増田君についてのエピソードを紹介して、彼を偲ぶことにしたい。
1980年代半ばであったか、増田君がロンドンの大学に留学中、学長以下大学人全員が正装して一堂に会して行なわれる朝食会に、増田君は、あえてジーパンで出席し、大いに顰蹙を買ったとテレながら話していたのを思い出す。私のような小心者は、そうしたいと思っても、到底実行できない。増田君は、それを実行してしまう。彼の権威主義への挑戦なのであった。
思い起こせば、私と増田君とは、まだ教授会で新参者であった頃、意気投合して、教授会に出席し、大先生、大先輩方の権威に動ぜず、仕来りや慣行など無視して、座席など自由に決め、勝手気ままに発言し、自由に振る舞い、経済学部教授会の自由な雰囲気を作ってきた。経済学部教授会の自由な雰囲気は、増田君なしに存在しなかったことだ。
1970年代半ば、法政大学が学生紛争で荒れ果てていた頃だったろうか、理事会が授業料値上げを提案してきたとき、教授会で賛否の議論が戦わされた。採決に際し、値上げの根拠が不充分として反対したのは、私と増田君のたった二人だけだった。それだけで終わるのでなく、過激派経済学部学生自治会を相手に執行部の授業料値上げの説明会には、授業料値上げに反対した増田君と私二人が、説明会の真ん前に座って、執行部の防衛に当たったりしたものだった。彼は行動のひとだった。
増田君は、時々の暴言を吐き、周囲をハラハラさせることがあった。1975年のことだったか、学生部長を出す順番が経済学部に回ってきた。「お前は法政のOBだから学生部長をやれ」と増田君に言われたが、超過激派の中核派が席巻する法政大学で学生部長なんか怖くてできないと、私は断った。結局説得されて私は学生部長を引き受けてしまった。
その後が問題だった。しょっちゅう55年館前の広場に引き出されて大衆団交と称して、学生部長のつるし挙げが行われ、自宅へ帰れば、革マルと中核の両派から脅迫電話がかかり、恐怖の日々を送っていたが、中核派自治会と私の仲介を計っていた学生部の職員が、私に情報を伝えることをあえてネグレクトしたため、私は、つる仕上げに際して大混乱し途方に暮れ立ち往生した。学生部がそうするなら、「学生部長なんかやってられない」と、夏休みの直前に私は「辞表」を叩きつけて家に閉じこもってしまった。
これは大変だということで、増田君が、若手を集め、法政の箱根荘で、慰留の宴を開いてくれた。そこまではよかった。しかし私は、学生部長に復帰することを固辞しため、増田君が、「好きでやってんだから、やめるなよ」ってなことをつい言ってしまった。復帰もやむを得ないと傾きかけていた私だが、売り言葉に買い言葉、「好きでやってるんじゃねえから、学生部長には決して戻らねえ」とケツをまくって家に帰ってしまった。
困った増田君は、私が長い夏休みをへて頭を冷した頃を見計らって、中村哲総長に新宿の沖縄料理屋に私を招かせ、再度、説得にかかった。うまい沖縄料理に舌鼓し、泡盛をたくさん飲まされ、いい気持ちにされて、「増田君もあやまっているから」と中村総長に説得され、私は、9月中旬から学生部長に復帰することを確約させられてしまった。この時の費用は、大学からでたのか、総長の私費だったのか、いまだ確認していない。
増田君は、時々暴言をはき、人を怒らせるのだが、実は心優しい人だったので、それで恨んだり、憎んだりされなかった。この会場にも何人かそうした経験のある方がいそうだ。
経済学部が多摩移転を決めた1982年頃でしたか、私と増田君が中心になって「若手の会」というのを作った。この会は、教養部の先生に得意のテーマで報告してもらう勉強会で、その後に居酒屋に出向いてお酒を飲んで懇親し、経済学部の多摩移転に際し、教養部から教養担当の教員を30名程度スカウトしなければならなかったので、経済学部の多摩移転計画を理解してもらうためと、教養部の先生方と交流を計る場とするためだった。
社会学部の相田利雄さん、工学部の渡辺嘉二郎さん、教養部の田島陽子さん、田中優子さん、安江孝司さん、大西弘さん、東大に行ってしまった本村凌二さん、など多くの先生方に参加していただいた。総長、覚えていますか。増田君と田中先生との出会いは、この時が初めてだったのではないでしょう。
増田君について、語ればきりがないので、これくらいにして、今は、「増田、やすらかに眠れ、田中優子総長が君の後任をしっかり果たしているから」、と別れの言葉で、「増田君を偲ぶ」弔辞の結びとしたい。

2019年1月23日

(文/法政大学名誉教授 村串仁三郎)