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法政大学経済学部同窓会>特別事業(平和祈念碑)>私の戦争体験
1、大東亜戦争の思い 昭和16年12月8日真珠湾攻撃に始まり、昭和20月3日米軍の館山上陸で大東亜戦争は、実質的に終わり、その舞台になりました。 昭和5年に館山湾に空母の形に似せた基地として館山海軍航空隊が完成し、実践的着艦訓練がされ、のちに真珠湾攻撃のパイロットを養成しました。連合艦隊司令官になった山本五十六元帥も本部技術部長時代に館山航空隊で指揮をとっていました。昭和20年9月2日に戦艦ミズーリ号で降伏文書の調印式があり、翌日には米陸軍が本土決戦を想定した上陸用舟艇を使用して上陸しました。 私は、小学校6年生でしたが、その凄さに沖縄戦を思い震えていました。上陸直後に本土で唯一の「軍政」が敷かれ、学校、劇場、酒場等が閉鎖され夜間外出禁止令が出されました。戦後日本の占領政策はこの日がスタートになったことは一般的には知られていないようです。 2、尋常小学校から国民学校へ 昭和16年3月に国民学校令が出され、これまでの尋常小学校は軍事色の強い学校になりました。同時に国家動員法、国民徴用令の公布や大政翼賛令の発足で戦争への道がひらかれ、学校でも校門に教育勅語が安置された奉安殿が出来、登校時には最敬礼をし、また日曜日には小学生全員が集まり、神社に必勝祈願をし、授業も教練が多くなり軍人が立ち会うようになりました。 3、東京大空襲の悲劇 昭和20年3月10日、館山市で空襲警報が出されるとB29の編隊が東京方面に数回にわたり飛行しました。数時間後に北の空が赤く染まり、夕焼けと異なる光景が異様な感じでした。東京が全滅したことを知り、父親が本所の祖母を訪ねましたが、全くの焼け野原で関東大震災では生き残ったのにと肩を落とし、戦争は負けるといって放心状態になっていました。このショックは大きく戦意もなくなり家族も暗い日々となりました。 4、B29の恐怖 東京大空襲の前後には、館山市は艦載機の攻撃がありました。軍事施設が中心で民間には大きな被害がありませんでしたが、5月17日にはB29が飛来し隣部落に爆弾を落としました。この様子を庭で見ていて爆発音に驚き防空壕に逃げ込みました。民間人27名が無惨に死亡しその恐怖は今も目に浮かびます。巡洋艦4艘から夜間艦砲射撃があり、その発射音と着地音の地響は生きた気持ちではありませんでした。 5、占領軍の上陸と終戦の不安 昭和20年4月には東京湾要塞司令部が設置され、7万人の軍隊と神風特攻隊員1,700名が配置され、本土決戦の最重要地域となって殺気だっていました。8月15日の玉音放送をきき、内容はわからなかったが戦争に負けたことだけは知り、これで空襲がなくなると思いほっとした気持ちになりました。 9月3日朝に、米陸軍第8軍団の3,500名の上陸する様子を見ながら沖縄戦を思い浮かべ不安な思いがしました。しかし日本軍の抵抗はなく、軍人は事前に敗戦を知っていたのだと思い愕然としました。そして軍隊の抵抗を予想して本土では唯一の「軍政」が行われた学校、劇場、酒場等が閉鎖され、夜間外出の禁止令が出されましたが、4日間で解除されました。 このようにして戦後の日本占領政策が館山からスタートしたことは一般には知られていないようです。 |