同窓会トップページへ戻る
入会のお誘い
経済学部のひろば
事業・行事案内
同窓会報より
同窓会特別講座
森嘉兵衛賞
会員短信
卒業生サービス
同窓会の案内
[同窓会からのお知らせ]同窓会からのさまざまなお知らせはここから
[リンク集]同窓会や法政大学関係のリンク集

[創立25周年記念事業]特設サイトへ

[卒サラ・起業家インタビュー・シリーズ]へ

法政大学経済学部同窓会事務局
〒194-0298
 東京都町田市相原町4342
 電話・FAX:042-783-2550
 (火・水・木曜 9時~16時)
法政大学経済学部同窓会特別事業(平和祈念碑)>私の戦争体験
事業・行事案内

私の戦争体験
村串仁三郎(法政大学名誉教授)


私の戦争体験としての疎開    村串仁三郎

私は、1935年10月、東京の下町、向島に生まれて足立区千住で育った。戦時下に少年時代を過ごした私は、戦時少年派とでも呼ぼうか、しかし沖縄の少年たちと違って激烈にして悲惨な戦争そのものの体験はない。1944年の夏、国民小学校3年生の時、戦局悪化で東京の小学生は、学童疎開、別名集団疎開を強いられた。それは、少国民を戦火から守るという軍国主義政府の心温かい措置だったのであろうか、将来の兵力を温存するための冷酷な軍事的意図からだったのか。小学3年生の9歳の私には、当時の戦局悪化も集団疎開の深い意味も何も理解できなかった。
 2歳にして父が病死して埼玉の越谷にあった母親の農家の実家に預けられ、母親と離れて小学校入学時まで育った私にとって、住み慣れた我が家を離れて、長野県は善光寺の宿坊に疎開することは何の不安も感じなかった。
 8月の何日か正確に覚えていないが、信越線の上野駅に夜の8時ころ集まって、夜行列車で長野駅に向った。車中は、しばらく遠足気分で賑わいだ。いたずら坊主が、就眠中の少年の鼻の穴に大豆を入れて、大騒ぎとなったのも、遠足の延長線で楽しい思い出の一つであった。
 長野駅に着くと、「ながのー、ながのー」という拡声器の音が頭にこびりついた。善光寺近くの圓乗院という宿坊に3年生30名ほどの少年たちが、3町ごとに大広間に寝起きする集団生活が始まった。小学校は、善光寺坂を下って行って市外の農村の一角に建つ学校に通い、疎開組の一クラスで地元の小学生と没交渉であった。だから地元っ子からいじめに会うこともなかった。
集団疎開の生活は、私にとっては、それなりに楽しく、食生活では十分ではなかったとはいえ、それほどひどかった記憶にない。子供が集団で暮らすと、猿山と同じに町ごとに小ボスが生まれ、勢力争いの小ボスの喧嘩対決などあって、面白い経験をした。
この小ボスのなかの大ボスが、食堂に並ぶテーブルの下にどんぶりをまわし、少しずつ集め、一人大食するという行為を見た。誰も文句を言わなかった。集団生活に慣れずに、寂しさのあまり、私の家の裏にあった家作をもっていた小さな地主の子供の兄弟が、宿坊を脱走して、家に帰ってしまうという騒ぎも起きた。そもそも東京に帰る運賃を持ち合わせていたのだから、何かうらやましさを感じたことを覚えている。
 新聞もラジオも腐朽していない生活だったので、戦況などほとんどわからなかったが、新聞の報じる大本営の戦果を読んだことがかすかに思い出させる。あるいは、時々、海外で戦争に勝利して日本軍の勇壮をつたえる映画をもせられ、学校の講堂で軍歌を教えられ、いつか日本が戦争に勝利すると教えられた。
戦時少年派の戦争体験は、善光寺での集団疎開に際には、特筆すべきものはなかったが、私は、1945年の春に肺炎を患い、病気が快復すると、母親が迎えに来て、母親の実家にまた預けられた。縁故疎開といった。
ある日の夜、南の空が真っ赤に燃えている風景を庭で見た。3月10日の東京の大空襲で、東京中が燃えたことが後でわかった。ある夜には、飛行機の空中戦も見られた。B29に向って高射砲弾が打ち込まれるが、飛行機に届かないのが見て取れる。中には日本の小さな飛行機がB29に向って突っ込んでいくが、途中でB29から発射される機関銃で撃ち落とされる光景も見みた。ちょっと気にかかったが、B29や二つの胴体をもつロッキードが煙を吐きながら遠くに消えていくのを見て、敵機ながら、あとどうなったであろうか、などと心配したことも思い出される。
突然、猛烈な爆発音がおこり、地響きがおって、恐怖を感じた。翌日、近くに日本の飛行機が落ちたことがわかった。地元の地主のむすめが、どこからともなく飛んできた弾丸の破片を太もも受けて、大怪我をしたことを知った。物見高いガキたちはそれを見に行った。いたいたしい姿をみて、心が痛んだ。自分でなくてよかったと思った。
8月15日は夏休み中だったが、突然、学校に集まれという号令があり、みんな何事かと集まった。教室では、ラジオ放送で天皇のスピーチを聞かされたが、何を言っているのかさっぱりわからなかったが、戦争に負けたということだけは理解できなかった。これが例の玉音放送で、敗戦の宣言だったことは青年になってから知った。戦争が終わったという感慨は、少年たちにはほとんどなかった。私は、夏休みを終えて、千住の母親の住む家に帰れる喜びに浸った。
私の戦争体験とは、これほど戦争に直接関係のないものであったが、戦後になって、戦争が生んだ悲劇、悲惨さ、残酷さは、私たちの周りには、無限にあった。少年たちの父親がたくさん戦死していたことを知った。まだ帰国しない父親のいる子もいた。乞食同様の省察をしている精神を病んだ帰還兵が、町のあちこちいた米軍による東京の爆撃の恐ろしさについても、たくさん聞く事が出来た。戦争の恐ろしさだけでなく、遠足の電車の中で、「特殊爆弾によって電車もろとも焼け死んだ人を見た」と大きな声で話す会話を聞いて、ほんとうか、と思って驚いたことを思い出す。
こうした漠然とした戦争体験は、戦後の私の青春期に、過去の戦争、戦争を起こした軍部や財閥について学ばせることになった。あの時代はいったい何だったのか、という疑問を解くために、私は、一生懸命に勉強することになった。
戦後70年に際し、年々増えくる戦争を知らない世代が、改めて太平洋戦争とは何だったのかを学んでほしいと痛感する。